白いカーテンの陰から
文字数 4,227文字
7.
救い主は旧西方領ザナリスの草叢 で産声をあげた。天使に導かれてその赤子を見つけた処女 フローレンは、以降聖母として崇められることとなる。
聖父母に育てられた神の娘は、様々な奇跡を行った。預言の種を播 いた。神殿に封印されていた聖なる書物を民衆に解き放った。かつて地球人が崇めた唯一神の赦 しと救済を新たに約束した。混乱と戦火が結実した。神の子はいつだって、平和よりも剣をもたらしにくる。
救い主は英雄として民衆を率いはしなかった。神の子自身は決して剣を取らず、ただ、私の声の響くところ、人の求めてやまぬものが顕 ようと預言された。
それから六百年、人は壁ばかり求めているらしい。
救い主の行方は知れないが、今でも歌っている。
※
ルシーラは警鐘を聞いた。痛み止めと眠り薬を胸に抱きしめて、町のどこにいても見える高台の教会に顎を向けた。
夜警 たちが高所で懐中電灯を振り回していた。
巡礼だ。
光も音も消える。
※
娘は夜遊びというほど華やかな遊びはしていなかった。壁の下の真っ暗な路上で膝を抱えていた少女は、生まれ変わった姿で巡礼衣の下から這い出した。
ほんの子供のとき以来浮かべたことのなかった純真な笑顔で巡礼者たちと抱擁を交わすと、少女は彼らを自宅に導いた。
娘の反抗期が終わるまでやり過ごしていればいいという考えの父親と、本音では産まなきゃよかったと思っている母親も連れていくのだ。
酒瓶とハエの羽音に囲まれて寝ていた中年の男は、教会の警鐘で目を覚ました。すぐ無音になった。巡礼だ。
巡礼に加わったら俺も楽になるのかと男は思った。でも表に出るの面倒くせぇなあ。どうせならここまで来てくんねぇかなあ。
願った通り、あるはずのない跳ね上げ戸がベッドの下に現れて、黒い人影が湧き出てきた。
無音の空間で、別の男は父親の部屋の戸が開く音を久しぶりに聞いた。
彼の寝室の戸口に立つ父親は、巡礼衣を着ており、白熱電球に照らされる顔は笑顔だった。
死者の川が流れる。
水の代わりに新しい死者の数を増しながら。
嫌よ。
ルシーラは流れから離れようと、大通りに背を向けた。裏道を使おう。とにかく帰らなくては。
私は死なない。アルコを育て上げるまでは。
だが、そのとき既に死者たちは、ルシーラの家に上がり込んでいた。
アルコは部屋の戸を閉ざした。ベッドの下に潜りこみ、耳を塞いだ。固く閉ざした両目から涙が流れ落ちた。
彼はこう叫んでいた。
行かない、行かない、僕は行かない、行かないったら行かないぞ。
度を失った絶叫は、簡単な節回しを得た。行かぬ行かぬと歌うアルコは気付いていなかったが、部屋にあるはずのない戸ができて、死者たちが入ってきた。
チルーは四つのことに気がついた。
死者が恐くないこと。
これまで巡礼の度 にチルーの心を襲っていた、『ついて行きたくなってしまったらどうしよう』という強迫観念が消えていること。
今日のリリスは死者を斬ろうとしないこと。
最後一つは、坂を下りてくる人影が、どうやら少女らしいこと。
手を繋いでいるリリス以外の生者は見えないのに、あの少女が見えるということは。
引き寄せられているのだ。
「リリスちゃん! あの子!」
スアラだった。
ルシーラは一つのことに気がついた。
坂の下にいるあの子たち、チルーとリリスだ。
※
リリスにチルーの呼び声は聞こえていなかった。巡礼の先頭の煽動者にたどり着くことしか考えていないようだ。チルーはその場に踏ん張り、腕を引っ張ってリリスの気を引いた。
リリスがチルーを振り返り、その手が指すほうに顔を向けた。スアラはちょうど街灯の真下に差し掛かっていた。はっきり見えた人相 はもはや見紛 うべくもない。
死者が二人、チルーに背中を向け、スアラに腕を差し伸べながら坂を上っていく。
繋いだ手は汗ばんでいた。それでもチルーとリリスは手を離さなかった。体も心も、魂も、見失わないために。
リリスの銃剣が死者の首を刺した。水面を叩くときのパシャっという音がして、死者が消えた。返す刃 でもう片方を斬り伏せる。
死者たちが消えると、浅い眠りから覚めたような様子でスアラが目を見開いた。彼女は驚き、困惑し、どこか打ちひしがれていた。
ああ……この子も死にたいのか。
チルーには、生きる意味などわからない。生きる希望という言葉にも、ピンとくるものはない。
ただ、生きていると、生きているということがわかる。チルーにわかるのはそれだけだ。
動揺しながらもチルーと視線を合わせるスアラの目の光はしっかりしていた。今は。
彼女が感じているものを、チルーもまた感じた。
冬の夜の凍てつく冷気に吹く夏のそよ風。
芳 しい薔薇の香り。
草原があるのだ。どこでもない場所に。『壁の聖女』がいる場所に。
スアラが左腕でチルーを押しのけて、石畳の坂道を駆け下りた。姿がかき消える。街灯の、暖色の光がむしろ寒々しく見える迷宮の光景が眼前にあった。薔薇もない。草原もない。
今度はリリスがチルーの腕を引っ張った。
真剣な様子で唇を動かす。三回めで読み取った。
『鳥をしまって!』
ほぼ条件反射。
右手を高くあげる。
学園には、早くも自分の鳥と出会えた鳥飼いがたくさんいた。その子たちとは実習において差をつけられるばかりだった。
今は理解できる。
鳥はどこにでもいることを。
自分の鳥は、呼べばくることを。
そのときになって、呼ぶ前からずっといたのだと理解できることを。
生者と死者の接点は、チルーの右手で鳥の模様となっていた。生と死の重ね合わせは解消された。
死者が消えた。
死体ばかり残った。
グロリアナの暗い辻の真ん中に立ち、置き去りにされた子供のようにスアラが立っていた。
※
「……鳥」
駆け寄って最初に、スアラの正気を確かめた。
「鳥を見せて」
大丈夫そうだった。
あまりに真剣な眼差しに怯 みながらもチルーは尋ねた。
「どうして?」
「どうしてって、そっちこそどうして隠したのさ。自分の鳥はいないって言ってたでしょ!?」
「交換条件ってのはどう?」
リリスが口を挟んだ。
「私の知りたいことを知る手伝いをあなたにしてもらうの。でも、チルーの鳥は特別なんだ。次呼んだら、あなた、何を失うかわからないよ」
「脅すつもり?」
「今、命を失いかけたよね?」
スアラは言葉に詰まったが、リリスから目をそらさず、首を振った。
口を開け、何か言おうとする。
「アルコ!」
甲高い叫びが夜の大気を裂いた。その声を彩る絶望に、チルーの腹の辺りが冷たくなった。
アルコの母親、ルシーラの声に違いない。
リリスが目配せし、声がした方向へ先に向かう。チルーはスアラを促した。
「来て」
私のせいだ。
チルーはわかっていた。
だが、不思議と自分のしたことに打ちひしがれてはいなかった。
ラナの村での経験は、チルーの深いところを変えていた。スアラはついてきた。足を急がせながら、心の中で聖四位一体を切る。
神様、死者の道行 を祝福してください。どうか、どうか……。
だが、アルコはまだ死んでいなかった。
単にまだ死んでいないというだけの状態だった。路上で母の腕に抱かれ、揺さぶられ、耳の近くで泣き叫ばれても返事をしなかった。
弛緩しきった体はゴムでできているかのように見え、目に光はなく、口から顎にかけて垂れるよだれが街灯を反射していた。
必死の呼びかけは慟哭に変わった。この辺りに住む人々は、なす術 なく親子を取り囲んでいた。白いカーテンの陰から、アルカとマルカの兄妹が、母と兄とを見つめていた。
ルシーラのそばには修道服に身を包んだ女が立っていた。言葉つかいだ。死者殺しの剣を右手に下げ、左手にはヴェールを持っていた。器用にも、左手だけでそのヴェールをかぶった。
「あの人」
スアラが囁く。
「知ってる人なの?」
「救貧院のテレジアだ。『救貧の召命 を受けた』とか言って一年くらい前にグロリアナに来たの」
「言葉つかいなんだ」
うん、とスアラは頷いた。「今知った」
少女たちは人垣に身を潜めていた。あまりに痛ましい状況ゆえに、むしろ目が離せなかった。
「この子はどうしてしまったの」
嗚咽するルシーラに、テレジアは腰を屈めて答えた。
「『死』を着せられたのです。ですが、完全に連れて行かれる前に死者が消えてしまったのでしょう」
ルシーラは両目に殺意をたたえてテレジアに顔を向けた。
「どうしたら治るの」
答えろクソ女。私はお前の本性 を知っている。
だがテレジアの目は冷厳で、衆目にあって物腰は穏やかだが、口にした事実は惨たらしかった。
「大変お気の毒ですが、この六百年というもの、教会の歴史に回復例は記録されておりません」
ああ……と呻 き、ルシーラはいま一度アルコをかき抱く。
どうしてあの母親を慰められよう。何もできぬと認めるよりも、この状況を招いた自分が悪いのだと自責するほうがよほどマシな気分でいられるのに? アルコは死者について行こうとした。死にたかったのだ。
素早く顔をあげたルシーラが、左手でテレジアの剣を奪った。大衆がどよめいたときにはもう、ルシーラは膝立ちになり、両手で剣を掲げていた。
息子の肉に押し付ける。
切っ先が、正確に鳩尾 に食い込んだ。
どよめきは一瞬にして混乱に変わった。
「私が殺したのよ!!」
一人、ルシーラは、周囲の声に抗 って金切り声で叫んだ。
「見た? 見たよね、あなたたち! ねえ、この子は自分で死のうとしたんじゃない。私が殺したの!!」
町の人たちはルシーラの脇に手を入れ、アルコから引き剥がした。
「出来が悪かったからよ!」
夜の町のいずこかへと、ルシーラは引きずられていった。声だけが通りから聞こえ続けた。
「お勉強をしないから殺したの! こんな時間に外をほっつき歩くなんて! 息子は死にたかったんじゃないわ! そんなわけない!」
だが、見抜いていた者が一人だけいた。
リリスもまた剣を使う。剣を握る感触と感覚を知っている。
だからわかった。
――あの人、わざと奪わせた。
「うちの子が死にたかったなんて嘘!!」
ルシーラの金切り声が遠ざかっていく。
「私が悪いのよ! 見たでしょ!? 私が殺したの!」
引きずられるルシーラの足から靴が片方、少し離れた路上にもう片方、脱げ落ちた。靴は街灯に照らされて転がった。風のようにルシーラの声が襲いかかってきた。
「全部私が悪いのよ!!」
救い主は旧西方領ザナリスの
聖父母に育てられた神の娘は、様々な奇跡を行った。預言の種を
救い主は英雄として民衆を率いはしなかった。神の子自身は決して剣を取らず、ただ、私の声の響くところ、人の求めてやまぬものが
それから六百年、人は壁ばかり求めているらしい。
救い主の行方は知れないが、今でも歌っている。
※
ルシーラは警鐘を聞いた。痛み止めと眠り薬を胸に抱きしめて、町のどこにいても見える高台の教会に顎を向けた。
巡礼だ。
光も音も消える。
※
娘は夜遊びというほど華やかな遊びはしていなかった。壁の下の真っ暗な路上で膝を抱えていた少女は、生まれ変わった姿で巡礼衣の下から這い出した。
ほんの子供のとき以来浮かべたことのなかった純真な笑顔で巡礼者たちと抱擁を交わすと、少女は彼らを自宅に導いた。
娘の反抗期が終わるまでやり過ごしていればいいという考えの父親と、本音では産まなきゃよかったと思っている母親も連れていくのだ。
酒瓶とハエの羽音に囲まれて寝ていた中年の男は、教会の警鐘で目を覚ました。すぐ無音になった。巡礼だ。
巡礼に加わったら俺も楽になるのかと男は思った。でも表に出るの面倒くせぇなあ。どうせならここまで来てくんねぇかなあ。
願った通り、あるはずのない跳ね上げ戸がベッドの下に現れて、黒い人影が湧き出てきた。
無音の空間で、別の男は父親の部屋の戸が開く音を久しぶりに聞いた。
彼の寝室の戸口に立つ父親は、巡礼衣を着ており、白熱電球に照らされる顔は笑顔だった。
死者の川が流れる。
水の代わりに新しい死者の数を増しながら。
嫌よ。
ルシーラは流れから離れようと、大通りに背を向けた。裏道を使おう。とにかく帰らなくては。
私は死なない。アルコを育て上げるまでは。
だが、そのとき既に死者たちは、ルシーラの家に上がり込んでいた。
アルコは部屋の戸を閉ざした。ベッドの下に潜りこみ、耳を塞いだ。固く閉ざした両目から涙が流れ落ちた。
彼はこう叫んでいた。
行かない、行かない、僕は行かない、行かないったら行かないぞ。
度を失った絶叫は、簡単な節回しを得た。行かぬ行かぬと歌うアルコは気付いていなかったが、部屋にあるはずのない戸ができて、死者たちが入ってきた。
チルーは四つのことに気がついた。
死者が恐くないこと。
これまで巡礼の
今日のリリスは死者を斬ろうとしないこと。
最後一つは、坂を下りてくる人影が、どうやら少女らしいこと。
手を繋いでいるリリス以外の生者は見えないのに、あの少女が見えるということは。
引き寄せられているのだ。
「リリスちゃん! あの子!」
スアラだった。
ルシーラは一つのことに気がついた。
坂の下にいるあの子たち、チルーとリリスだ。
※
リリスにチルーの呼び声は聞こえていなかった。巡礼の先頭の煽動者にたどり着くことしか考えていないようだ。チルーはその場に踏ん張り、腕を引っ張ってリリスの気を引いた。
リリスがチルーを振り返り、その手が指すほうに顔を向けた。スアラはちょうど街灯の真下に差し掛かっていた。はっきり見えた
死者が二人、チルーに背中を向け、スアラに腕を差し伸べながら坂を上っていく。
繋いだ手は汗ばんでいた。それでもチルーとリリスは手を離さなかった。体も心も、魂も、見失わないために。
リリスの銃剣が死者の首を刺した。水面を叩くときのパシャっという音がして、死者が消えた。返す
死者たちが消えると、浅い眠りから覚めたような様子でスアラが目を見開いた。彼女は驚き、困惑し、どこか打ちひしがれていた。
ああ……この子も死にたいのか。
チルーには、生きる意味などわからない。生きる希望という言葉にも、ピンとくるものはない。
ただ、生きていると、生きているということがわかる。チルーにわかるのはそれだけだ。
動揺しながらもチルーと視線を合わせるスアラの目の光はしっかりしていた。今は。
彼女が感じているものを、チルーもまた感じた。
冬の夜の凍てつく冷気に吹く夏のそよ風。
草原があるのだ。どこでもない場所に。『壁の聖女』がいる場所に。
スアラが左腕でチルーを押しのけて、石畳の坂道を駆け下りた。姿がかき消える。街灯の、暖色の光がむしろ寒々しく見える迷宮の光景が眼前にあった。薔薇もない。草原もない。
今度はリリスがチルーの腕を引っ張った。
真剣な様子で唇を動かす。三回めで読み取った。
『鳥をしまって!』
ほぼ条件反射。
右手を高くあげる。
学園には、早くも自分の鳥と出会えた鳥飼いがたくさんいた。その子たちとは実習において差をつけられるばかりだった。
今は理解できる。
鳥はどこにでもいることを。
自分の鳥は、呼べばくることを。
そのときになって、呼ぶ前からずっといたのだと理解できることを。
生者と死者の接点は、チルーの右手で鳥の模様となっていた。生と死の重ね合わせは解消された。
死者が消えた。
死体ばかり残った。
グロリアナの暗い辻の真ん中に立ち、置き去りにされた子供のようにスアラが立っていた。
※
「……鳥」
駆け寄って最初に、スアラの正気を確かめた。
「鳥を見せて」
大丈夫そうだった。
あまりに真剣な眼差しに
「どうして?」
「どうしてって、そっちこそどうして隠したのさ。自分の鳥はいないって言ってたでしょ!?」
「交換条件ってのはどう?」
リリスが口を挟んだ。
「私の知りたいことを知る手伝いをあなたにしてもらうの。でも、チルーの鳥は特別なんだ。次呼んだら、あなた、何を失うかわからないよ」
「脅すつもり?」
「今、命を失いかけたよね?」
スアラは言葉に詰まったが、リリスから目をそらさず、首を振った。
口を開け、何か言おうとする。
「アルコ!」
甲高い叫びが夜の大気を裂いた。その声を彩る絶望に、チルーの腹の辺りが冷たくなった。
アルコの母親、ルシーラの声に違いない。
リリスが目配せし、声がした方向へ先に向かう。チルーはスアラを促した。
「来て」
私のせいだ。
チルーはわかっていた。
だが、不思議と自分のしたことに打ちひしがれてはいなかった。
ラナの村での経験は、チルーの深いところを変えていた。スアラはついてきた。足を急がせながら、心の中で聖四位一体を切る。
神様、死者の
だが、アルコはまだ死んでいなかった。
単にまだ死んでいないというだけの状態だった。路上で母の腕に抱かれ、揺さぶられ、耳の近くで泣き叫ばれても返事をしなかった。
弛緩しきった体はゴムでできているかのように見え、目に光はなく、口から顎にかけて垂れるよだれが街灯を反射していた。
必死の呼びかけは慟哭に変わった。この辺りに住む人々は、なす
ルシーラのそばには修道服に身を包んだ女が立っていた。言葉つかいだ。死者殺しの剣を右手に下げ、左手にはヴェールを持っていた。器用にも、左手だけでそのヴェールをかぶった。
「あの人」
スアラが囁く。
「知ってる人なの?」
「救貧院のテレジアだ。『救貧の
「言葉つかいなんだ」
うん、とスアラは頷いた。「今知った」
少女たちは人垣に身を潜めていた。あまりに痛ましい状況ゆえに、むしろ目が離せなかった。
「この子はどうしてしまったの」
嗚咽するルシーラに、テレジアは腰を屈めて答えた。
「『死』を着せられたのです。ですが、完全に連れて行かれる前に死者が消えてしまったのでしょう」
ルシーラは両目に殺意をたたえてテレジアに顔を向けた。
「どうしたら治るの」
答えろクソ女。私はお前の
だがテレジアの目は冷厳で、衆目にあって物腰は穏やかだが、口にした事実は惨たらしかった。
「大変お気の毒ですが、この六百年というもの、教会の歴史に回復例は記録されておりません」
ああ……と
どうしてあの母親を慰められよう。何もできぬと認めるよりも、この状況を招いた自分が悪いのだと自責するほうがよほどマシな気分でいられるのに? アルコは死者について行こうとした。死にたかったのだ。
素早く顔をあげたルシーラが、左手でテレジアの剣を奪った。大衆がどよめいたときにはもう、ルシーラは膝立ちになり、両手で剣を掲げていた。
息子の肉に押し付ける。
切っ先が、正確に
どよめきは一瞬にして混乱に変わった。
「私が殺したのよ!!」
一人、ルシーラは、周囲の声に
「見た? 見たよね、あなたたち! ねえ、この子は自分で死のうとしたんじゃない。私が殺したの!!」
町の人たちはルシーラの脇に手を入れ、アルコから引き剥がした。
「出来が悪かったからよ!」
夜の町のいずこかへと、ルシーラは引きずられていった。声だけが通りから聞こえ続けた。
「お勉強をしないから殺したの! こんな時間に外をほっつき歩くなんて! 息子は死にたかったんじゃないわ! そんなわけない!」
だが、見抜いていた者が一人だけいた。
リリスもまた剣を使う。剣を握る感触と感覚を知っている。
だからわかった。
――あの人、わざと奪わせた。
「うちの子が死にたかったなんて嘘!!」
ルシーラの金切り声が遠ざかっていく。
「私が悪いのよ! 見たでしょ!? 私が殺したの!」
引きずられるルシーラの足から靴が片方、少し離れた路上にもう片方、脱げ落ちた。靴は街灯に照らされて転がった。風のようにルシーラの声が襲いかかってきた。
「全部私が悪いのよ!!」