死にたいのか……
文字数 3,126文字
※
全く無音の世界というわけではない。自分の声はするはずだから。
試してみる。
「リリスちゃん?」
聞こえた。ひとまずの安堵。歩けばちゃんと足音もした。粉雪を含んだ風は、壁の切れ目を走るとき、泣くような音を鳴らした。
友人の髪の黒、またはコートの灰色、マフラーの緑色、その色をあちこち探す。井戸の陰に。教会の正面玄関 に。それか、教会の裏の鳥小屋だろうか。魔女の家にいるだろうか。鳥小屋のそばで薪を割っていた人々はどこに?
一人で死者の領域に戻ってきた自分に驚かないでもなかった。
学園で繰り返し教わった。死者は死にたい人しか連れていかないと。
井戸の横を通り過ぎながら、チルーは自分の本心を探った。何故戻ってきたのかと。
私は大丈夫、と思っているのか……それとも、実は死にたいのか?
歌が、聞こえてきた。
死者の歌。低い呻き。
段階的に近付いてくる。
見たくない。振り向いたとき、何が見えるか知っている。だが見てしまうのだとわかっていた。死にたくないから危険な場所に戻ってきたように、見たくないから見てしまう。
その通り、さして躊躇 いもなく、嫌悪感だけを抱えてチルーは後ろを見た。
ブリキのバケツが風で転がっていった。バケツは突然重みが増したように、何もない砂の上で急停止した。
バケツから、白い袖 に包まれた腕が出てきた。乾燥した皮膚。死者だ。次に、黒い頭髪に覆われた頭が。這い出てくる死者に背を向けて、チルーは静かに立ち去った。
町の中心部に向けて更に壁を過ぎると、チルーめがけて鋤 や鍬 が倒れかかってきた。柄 の先端が腕をかすめたが、怪我をするほどのことではなかった。それらの農具は煉瓦造りの壁に立てかけてあったのだが、その壁に、ありうべくもない空洞があき、その向こうの暗闇から、死者が道の様子を窺っていた。幸い、目を合わさずに済んだ。
更に進む。
巡礼団の呻きは通奏低音のように聞こえていた。次の曲がり角で、チルーはいよいよ恐いものに会った。
老人。
髪が抜け落ち、骨と皮だけになった巡礼衣の死者が、笑顔で手招きをしていた。チルーは凍りついたが、その死者が招く相手はチルーではなかった。
見えなくなっていたものが見えた。生者だ。チルーと同じくらいの背丈の少女だった。少女は一陣の風を起こし、チルーの後ろから、老人のもとへ駆けて行った。笑顔だった。少女は老人の首に、老人は少女の腰に腕を回す。死別を乗り越えた、生者と死者の抱擁。老人の腕は少女の腰に食い込み――きつくきつく――少女は仰 け反った。
チルーはイースラの死顔を思い出していた。あの少女も恐ろしい苦悶の表情をしているのではないか。それでも少女は老人の首にしがみついたまま。老人の腕は刃物のように少女の腰を裂き、両側から体の中に埋もれていく。少女の黄色いスカートが血染めになった。溢れた血は少女が立つ地面を円形に染め、その直径は大きくなる。臓腑がこぼれ、老人の腕はなおも締まり、背骨にまで達した。ついには骨までも、ぷつりと切れた。
ここに至って少女の両腕が老人の首を滑り落ちた。腰で両断された上体が砂に転がった。ついで膝を屈した下半身が。老人が巡礼衣を脱ぎ、しゃがんで少女の遺体にかけた。巡礼衣が蠢き始める……そこでようやく、チルーは目を凝らすのをやめた。
何も見たくない。嫌だ。踵 を返す。さっきまで、私は死にたいのだろうか、と悩んでいたのが嘘のようだった。絶対に嫌だ。少なくともここで死ぬのはだけは嫌だ。
背後では、十人ばかりの死者が死にたい人を求めてうろついていた。そのただなかに、壁の向こう、チルーにとって死角だった場所から人が飛び出してきた。リリスだった。
リリスが銃剣で斬ると、今日の死者たちは、プシュウッ、という、空圧装置のエアを抜くときの音を立てた。
プシュッ、プシュウ、プシュウゥ。
そして、本当に空気の抜けた空圧装置のように、立ったまま動きを止めていく。
まるでからかっているみたいだ。死者たちは予 め、こう示し合わせたのではないか? 『こないだはシャンパンの栓を抜く音にしたから、今日はエアを抜く音にしようぜ』
リリスと目があった。彼女にもチルーが見えている。チルーはゆっくりと、斬られて動かなくなった死者に目を向けて、この死は一体何だろう、と考えた。
ここに、尊厳があるのか? 死の音に、死の姿に、死の行いに、死の薄笑いに。
死の後の姿がこれならば、死の前にあるこの生は、果たして何なのか?
もう一度リリスを見る。
死者の一人が、横手から、彼女の二の腕にそっと手を添えていた。
リリスは振り払おうとしない。
動きを止め、何が見えるのか、死者の目を真剣な様子でじっと覗き込んでいる。その背後から、別の死者が巡礼衣を広げてリリスに着せようとしていた。
チルーは動いた。むしろ自分自身を守るためだった。でなければ、どうしてリリスの手から銃剣をもぎ取る勇気が出ただろう。リリスの手に力がなかったので、銃剣はあっさり奪い取れた。チルーは何故だか汚辱にまみれた気分だった。死者に嫌悪を叩きつける。
「あっちに行って!」
まず広げられた巡礼衣を右手の銃剣で切り裂いた。少し破れただけだった。左手で死者の巡礼衣を握りしめ、押しのけると、その向こうにいる死者の胸に銃剣の切っ先を押しつけた。
だが、力が足りないのか、それとも角度が悪いのか(わかっている。度胸が足りないのだ)、銃剣は死者のむき出しの胸を浅く傷つけただけだった。
誰かがたじろぐチルーの手から銃剣を奪った。思わず悲鳴をあげたが、リリスだった。彼女はウィンクすると、口を動かした。「ありがとう」と言ったのだろう。リリスは死者を斬り伏せた。プシュウウゥ。
わっ、と、通奏低音が急激に大きくなった。
少女二人は揃って振り返る。
後ろから、死者の濁流が押し寄せてきた。
迷宮の壁に沿って蛇行する川。巡礼団。壁は、生者と死者を隔てるために存在するのだという。壁がなければ、死者に連れ去られる人間の数は今よりずっと多いのだと聞く。でも、本当に?
巡礼の中心、扇動者は先頭近くにいた。その扇動者は決して大きくない。全身を鎧で覆い、吹き流しのついた槍を携えた馬上の騎士。型の名は『騎士団長』。
リリスが髪をなびかせながら、死者の列へと駆けていく。銃剣が空に敷き詰められた雪雲を映した。
「死にたくないよ!」チルーは踏みとどまって叫んだ。「私は行かないからね!」
リリスが死ぬのを見てしまうのか。見ずには済まされないのか。だがその想像の苦しみは、必要のないものだった。リリスの姿が再び見えなくなり、数秒後、切り裂く風の音が戻ってきた。
ブリキのバケツが転がる音、農具の倒れる音、戸板の外れる音。
道の真ん中に、リリスが背中を向けて立っている。死者はいない。彼女は見事、巡礼団の扇動者を斬ったのだ。
空も、辺りの空気も確実に暗くなってきていた。雪雲は赤みを増し、その色合いと裏腹に、寒さは一層厳しくなる。雪はちらついたり止 んだりを繰り返し、積もる気配はないが、問題は風だった。耳が痛い。耳たぶも、耳の奥も痛い。
どうしたらいいのかチルーにはわからなかったが、リリスにはわかっていた。リリスは小走りにチルーに近寄ると、無言で手を取って、魔女の家のほうへ大股で歩いていった。
少しして、隠れるつもりだと理解した。生き残りの人々が家から出てくる音がした。
全く無音の世界というわけではない。自分の声はするはずだから。
試してみる。
「リリスちゃん?」
聞こえた。ひとまずの安堵。歩けばちゃんと足音もした。粉雪を含んだ風は、壁の切れ目を走るとき、泣くような音を鳴らした。
友人の髪の黒、またはコートの灰色、マフラーの緑色、その色をあちこち探す。井戸の陰に。教会の
一人で死者の領域に戻ってきた自分に驚かないでもなかった。
学園で繰り返し教わった。死者は死にたい人しか連れていかないと。
井戸の横を通り過ぎながら、チルーは自分の本心を探った。何故戻ってきたのかと。
私は大丈夫、と思っているのか……それとも、実は死にたいのか?
歌が、聞こえてきた。
死者の歌。低い呻き。
段階的に近付いてくる。
見たくない。振り向いたとき、何が見えるか知っている。だが見てしまうのだとわかっていた。死にたくないから危険な場所に戻ってきたように、見たくないから見てしまう。
その通り、さして
ブリキのバケツが風で転がっていった。バケツは突然重みが増したように、何もない砂の上で急停止した。
バケツから、白い
町の中心部に向けて更に壁を過ぎると、チルーめがけて
更に進む。
巡礼団の呻きは通奏低音のように聞こえていた。次の曲がり角で、チルーはいよいよ恐いものに会った。
老人。
髪が抜け落ち、骨と皮だけになった巡礼衣の死者が、笑顔で手招きをしていた。チルーは凍りついたが、その死者が招く相手はチルーではなかった。
見えなくなっていたものが見えた。生者だ。チルーと同じくらいの背丈の少女だった。少女は一陣の風を起こし、チルーの後ろから、老人のもとへ駆けて行った。笑顔だった。少女は老人の首に、老人は少女の腰に腕を回す。死別を乗り越えた、生者と死者の抱擁。老人の腕は少女の腰に食い込み――きつくきつく――少女は
チルーはイースラの死顔を思い出していた。あの少女も恐ろしい苦悶の表情をしているのではないか。それでも少女は老人の首にしがみついたまま。老人の腕は刃物のように少女の腰を裂き、両側から体の中に埋もれていく。少女の黄色いスカートが血染めになった。溢れた血は少女が立つ地面を円形に染め、その直径は大きくなる。臓腑がこぼれ、老人の腕はなおも締まり、背骨にまで達した。ついには骨までも、ぷつりと切れた。
ここに至って少女の両腕が老人の首を滑り落ちた。腰で両断された上体が砂に転がった。ついで膝を屈した下半身が。老人が巡礼衣を脱ぎ、しゃがんで少女の遺体にかけた。巡礼衣が蠢き始める……そこでようやく、チルーは目を凝らすのをやめた。
何も見たくない。嫌だ。
背後では、十人ばかりの死者が死にたい人を求めてうろついていた。そのただなかに、壁の向こう、チルーにとって死角だった場所から人が飛び出してきた。リリスだった。
リリスが銃剣で斬ると、今日の死者たちは、プシュウッ、という、空圧装置のエアを抜くときの音を立てた。
プシュッ、プシュウ、プシュウゥ。
そして、本当に空気の抜けた空圧装置のように、立ったまま動きを止めていく。
まるでからかっているみたいだ。死者たちは
リリスと目があった。彼女にもチルーが見えている。チルーはゆっくりと、斬られて動かなくなった死者に目を向けて、この死は一体何だろう、と考えた。
ここに、尊厳があるのか? 死の音に、死の姿に、死の行いに、死の薄笑いに。
死の後の姿がこれならば、死の前にあるこの生は、果たして何なのか?
もう一度リリスを見る。
死者の一人が、横手から、彼女の二の腕にそっと手を添えていた。
リリスは振り払おうとしない。
動きを止め、何が見えるのか、死者の目を真剣な様子でじっと覗き込んでいる。その背後から、別の死者が巡礼衣を広げてリリスに着せようとしていた。
チルーは動いた。むしろ自分自身を守るためだった。でなければ、どうしてリリスの手から銃剣をもぎ取る勇気が出ただろう。リリスの手に力がなかったので、銃剣はあっさり奪い取れた。チルーは何故だか汚辱にまみれた気分だった。死者に嫌悪を叩きつける。
「あっちに行って!」
まず広げられた巡礼衣を右手の銃剣で切り裂いた。少し破れただけだった。左手で死者の巡礼衣を握りしめ、押しのけると、その向こうにいる死者の胸に銃剣の切っ先を押しつけた。
だが、力が足りないのか、それとも角度が悪いのか(わかっている。度胸が足りないのだ)、銃剣は死者のむき出しの胸を浅く傷つけただけだった。
誰かがたじろぐチルーの手から銃剣を奪った。思わず悲鳴をあげたが、リリスだった。彼女はウィンクすると、口を動かした。「ありがとう」と言ったのだろう。リリスは死者を斬り伏せた。プシュウウゥ。
わっ、と、通奏低音が急激に大きくなった。
少女二人は揃って振り返る。
後ろから、死者の濁流が押し寄せてきた。
迷宮の壁に沿って蛇行する川。巡礼団。壁は、生者と死者を隔てるために存在するのだという。壁がなければ、死者に連れ去られる人間の数は今よりずっと多いのだと聞く。でも、本当に?
巡礼の中心、扇動者は先頭近くにいた。その扇動者は決して大きくない。全身を鎧で覆い、吹き流しのついた槍を携えた馬上の騎士。型の名は『騎士団長』。
リリスが髪をなびかせながら、死者の列へと駆けていく。銃剣が空に敷き詰められた雪雲を映した。
「死にたくないよ!」チルーは踏みとどまって叫んだ。「私は行かないからね!」
リリスが死ぬのを見てしまうのか。見ずには済まされないのか。だがその想像の苦しみは、必要のないものだった。リリスの姿が再び見えなくなり、数秒後、切り裂く風の音が戻ってきた。
ブリキのバケツが転がる音、農具の倒れる音、戸板の外れる音。
道の真ん中に、リリスが背中を向けて立っている。死者はいない。彼女は見事、巡礼団の扇動者を斬ったのだ。
空も、辺りの空気も確実に暗くなってきていた。雪雲は赤みを増し、その色合いと裏腹に、寒さは一層厳しくなる。雪はちらついたり
どうしたらいいのかチルーにはわからなかったが、リリスにはわかっていた。リリスは小走りにチルーに近寄ると、無言で手を取って、魔女の家のほうへ大股で歩いていった。
少しして、隠れるつもりだと理解した。生き残りの人々が家から出てくる音がした。