隠者
文字数 3,495文字
1.
銃声が響いても、応戦する音は聞こえてこなかった。身構えたアズは、結局、猟師が撃ったのだろうと結論を出した。実際アズの眼下には猟師の家が見えていた。低い崖の真下に建つ小屋の板葺きの屋根。庭と呼べる広さがある小屋の前の空間には鹿の革と角が干され、日干し煉瓦と木でできた作業用の大きなテーブルには血のシミが広がっていた。
怪我さえなければこの程度の崖は飛び降りても良かったのだが、アズは汗をかき、息を切らしながら踏み固められた土の坂を下って小屋の入り口にたどり着いた。
冬の山中の開けた空間には惜しみなく陽の光が注ぎ、風に揺れ動くはだかの枝々が地面に模様をつけていた。
アズが戸口に立つと、再度の銃声。
小屋の窓は鎧戸が外されたままになっていた。中は暗く、竈の火は消えていた。
一歩踏み出した。
体内は灼熱の炎に焼かれ、臓器は捻 じれている。そう表現するしかないほどの苦痛に苛まれて三日が経つ。足を引きずり、教皇から下賜された処刑刀を杖に使い、一歩前に出るたびに息を弾ませた。夢の中のように。服が濡れていないだけマシだ。
それでもどうにか作業場を横切って井戸にたどり着いた。作業場と井戸の間の切り株には斧が刺さったまま放置され、周囲に薪 の屑が散っていた。
それらの屑と木片を踏み、引き縄に手をかける。縄のざらつきを手袋越しに感じると、力が抜け、アズは抜け殻のようになって井戸端に座り込んだ。
井戸に背中を預け、体を支える。
横になってはいけない。
起き上がれなくなる。
まぶたが勝手に落ちていく。
右手を上げようとした。頬を叩けば眠気は遠のくはずだ。だが手は上がらなかった。危うく握りつぶされるところだった胸と腹と腰、この部分の痛みだけがいつまでも鋭敏で、ただ眠気だけが苦痛を和らげ得る唯一のものだった。
鋭い音がその眠気を吹き飛ばした。
また銃声だ。
先ほどよりずっと近い。
目が、閉じたときと同じくらい自然に開かれた。
誰かが立て続けに二発、三発と発砲する。
何かがおかしい。
自分でも意外なことに、アズは戦いに備えて身構えた。
銃声が、四発め。
処刑刀を支えに立ち上がる。今や意識は苦痛よりも異変の在り処に向かっていた。立ち上がることができた。歩くことも、敵を探すことも。自分に驚く。なんだ、俺はまだ戦えるじゃないか。
猟銃の使い手は一方的に撃ちまくっていた。走りながら撃っている。小屋の前庭を走り始めたアズの耳に、枯れ枝を踏みしだいて駆ける誰かの足音が聞こえた。
かなり近い。
アズは森へ。
道は歩幅ぶんだけ踏み固められていた。木はまばらで、枝打ちされ、十分とは言えないものの人の手が入っている。
下りの斜面の先に猟師を見つけた。
振り返りながら逃げてきたその男は、斜面の上に立つアズに気がつき顔を上げた。
猟師の後ろには冬眠しそびれた熊が迫っていた。
銃弾は飢えた熊を止められなかった。だがこれならどうだ?
アズの手が光を宿した。
※
覚醒は苦痛の始まりだ。わかっていながら目を開けたが、覚悟は空振りした。痛くなかった。全く苦痛がないわけではないが、一度ゆっくり眠っただけとは思えないほど体が楽になっていた。
仰向けに寝かされていたアズは、滲む視界が明瞭になるまで瞬きを繰り返し、鍋をかき回す音がするほうへ頭を動かした。
竈の前に男が立っているのが見えた。大柄で、肩まで伸ばしっぱなしの髪は絡みあい、シャツの上からでもわかるほど背筋が盛り上がっている。白い煙が竈から立ち上っていた。いい匂いがすることに、初めて気がついた。肉だ。肉がある。新鮮な食べ物が。
アズは干し草の上から起き上がろうとした。薄いシーツの中に干し草が入り込み、手足がチクチクする。アズが起き上がる気配を察知し、男が振り向いた。肌が日焼けし、髪は赤茶色に褪せている。鼻が大きく、左目の下から頬にかけて大きな傷が走っていた。
男は鋭い眼光で、今は使われていない畜舎の干し草の上に座り込むアズを見つめた。アズはぼんやり考えた。牛を飼っていたのだろう、町への荷運び用に。牛はいついなくなったんだ? その疑問はこう言い換えることもできる。あの人が世俗との交流を断ってどれくらい経 つのだろう?
男が口を開いた。低くしゃがれた声だった。
「ズタズタにしやがって」
住居と一体化した牛の寝床で、アズは木の柵に背中をもたせかけた。
「熊の毛皮のことだ」男は言葉を続けた。「首をスパッと切り落としてくれりゃあ、高く売れたのによ」
そして竈と向かい合う。男は杓 を使って、木をくり抜いてできた器にスープをひとすくい盛った。
それをアズのところまで持ってくる。
開け放たれた柵から男はスープを差し出した。
「食え」
ゆっくり上げるアズの両手はまだ重かった。木材越しにスープの温かさが伝わってくる。自然の中で孤独に暮らしていたせいか、男の眼光は厳しく鋭かったが、アズへの拒絶はなかった。年は五十を過ぎたかどうかといったところだ。都市部に暮らすこの年代の人々と比べれば、逞しく、健康的だ。
椀 に目を落とすと、肉が三かけらも入っていた。アズは顔を上げ、男の顔を見た。そして第一声を発した。
「お怪我はございませんか」
かすれているが弱々しい声ではなかったのでアズは安心した。男は唇を釣り上げて、肩を揺すった。
「身の程知らずだな」
どうやら笑ったつもりだったらしい。彼は竈の前に戻り、自分のスープを椀にすくうと、畜舎に入ってきて干し草の上に胡座 を組んだ。彼は匙 を使わずに椀から直接スープと具を口に流し込み、肉を噛んだ。とれたての熊肉だ。
肉を咀嚼するとぶっきらぼうに言い放つ。
「公教会の『天使』たあ、変わった行き倒れだ」
アズは目を動かした。荷物一式はきちんと枕もとに並べ置かれていた。
「どういう事情だ」
猟師は重々しく問いかける。
「言えません」
「だろうな」
「助けていただきありがとうございます」
もう一度、スープで口を湿らせてからアズは一礼した。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「言えん」
会話が絶えた。二人はしばらく黙々と食事に専念した。
「もう一杯食え」
椀が空になると、男はすかさず言った。
「お前が仕留めた熊だ」
結局、アズはスープを三杯も馳走 になった。
「今すぐ横になれ」
三杯目が椀から消えてすぐ、男は命じた。口をゆすぎたかったのだが、言われたとおりにすると、男はアズの傍らに両膝をつき、両手を重ねて鳩尾 に置いた。
真剣な目をアズの胸に落としながら、呼吸を合わせてくる。
やがて胸に置かれた両手から温かいものが体内にしみ込んできた。アズはその力を理解し、驚きとともに受け入れた。『塗油 』だ。この人も言葉つかいなのだ。
「あなたは」つい口を開いた。「何者なのですか。猟師ではなかったのですか」
「こう見えて修道士なんだがな」
「なぜ『塗油』の言葉つかいが――」
「黙れ」
胸に圧が加わった。
「喋られると呼吸があわん」
止 むなくアズは口を閉ざす。心地よい温 もりが、体に残る傷にしみていく。
ほどなくして眠りに落ちた。
※
「ああ、そうかい」
朝になっても修道士はアズを追い出そうとしなかったが、立ち去るというのを引き止めるでもなかった。朝日の中で薪 を割る手を止めず、アズを見ようともしない。アズはそれでも一礼した。疲労は癒え、激しかった痛みは体の奥底にくすぶる程度となっていた。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「そりゃお互い様だ」
「教えていただきたいことがあるのですが」
斧を食い込ませた木材を振り上げて、修道士は動きを止めた。鋭い目がアズを捕らえる。
「ここはどの辺りなのでしょうか。近くに大きな町は」
「……どちらがいい。グロリアナか南ルナリアだ」
「では南ルナリアへ」
「ふん。そのほうが近い」
修道士は斧ごと木材を切り株へと振り下ろし、二つに割った。それから、道順と、麓 に下りるまでに集落が二つ三つあることを教えてくれた。
「ありがとうございます。必ずや返礼に戻って参ります」
「アンズだ」修道士は言った。「旬の季節に来るのなら、生でな」
なんのことはない。手土産を要求されたのだ。アズはもう一度、深く頭を下げた。
銃声が響いても、応戦する音は聞こえてこなかった。身構えたアズは、結局、猟師が撃ったのだろうと結論を出した。実際アズの眼下には猟師の家が見えていた。低い崖の真下に建つ小屋の板葺きの屋根。庭と呼べる広さがある小屋の前の空間には鹿の革と角が干され、日干し煉瓦と木でできた作業用の大きなテーブルには血のシミが広がっていた。
怪我さえなければこの程度の崖は飛び降りても良かったのだが、アズは汗をかき、息を切らしながら踏み固められた土の坂を下って小屋の入り口にたどり着いた。
冬の山中の開けた空間には惜しみなく陽の光が注ぎ、風に揺れ動くはだかの枝々が地面に模様をつけていた。
アズが戸口に立つと、再度の銃声。
小屋の窓は鎧戸が外されたままになっていた。中は暗く、竈の火は消えていた。
一歩踏み出した。
体内は灼熱の炎に焼かれ、臓器は
それでもどうにか作業場を横切って井戸にたどり着いた。作業場と井戸の間の切り株には斧が刺さったまま放置され、周囲に
それらの屑と木片を踏み、引き縄に手をかける。縄のざらつきを手袋越しに感じると、力が抜け、アズは抜け殻のようになって井戸端に座り込んだ。
井戸に背中を預け、体を支える。
横になってはいけない。
起き上がれなくなる。
まぶたが勝手に落ちていく。
右手を上げようとした。頬を叩けば眠気は遠のくはずだ。だが手は上がらなかった。危うく握りつぶされるところだった胸と腹と腰、この部分の痛みだけがいつまでも鋭敏で、ただ眠気だけが苦痛を和らげ得る唯一のものだった。
鋭い音がその眠気を吹き飛ばした。
また銃声だ。
先ほどよりずっと近い。
目が、閉じたときと同じくらい自然に開かれた。
誰かが立て続けに二発、三発と発砲する。
何かがおかしい。
自分でも意外なことに、アズは戦いに備えて身構えた。
銃声が、四発め。
処刑刀を支えに立ち上がる。今や意識は苦痛よりも異変の在り処に向かっていた。立ち上がることができた。歩くことも、敵を探すことも。自分に驚く。なんだ、俺はまだ戦えるじゃないか。
猟銃の使い手は一方的に撃ちまくっていた。走りながら撃っている。小屋の前庭を走り始めたアズの耳に、枯れ枝を踏みしだいて駆ける誰かの足音が聞こえた。
かなり近い。
アズは森へ。
道は歩幅ぶんだけ踏み固められていた。木はまばらで、枝打ちされ、十分とは言えないものの人の手が入っている。
下りの斜面の先に猟師を見つけた。
振り返りながら逃げてきたその男は、斜面の上に立つアズに気がつき顔を上げた。
猟師の後ろには冬眠しそびれた熊が迫っていた。
銃弾は飢えた熊を止められなかった。だがこれならどうだ?
アズの手が光を宿した。
※
覚醒は苦痛の始まりだ。わかっていながら目を開けたが、覚悟は空振りした。痛くなかった。全く苦痛がないわけではないが、一度ゆっくり眠っただけとは思えないほど体が楽になっていた。
仰向けに寝かされていたアズは、滲む視界が明瞭になるまで瞬きを繰り返し、鍋をかき回す音がするほうへ頭を動かした。
竈の前に男が立っているのが見えた。大柄で、肩まで伸ばしっぱなしの髪は絡みあい、シャツの上からでもわかるほど背筋が盛り上がっている。白い煙が竈から立ち上っていた。いい匂いがすることに、初めて気がついた。肉だ。肉がある。新鮮な食べ物が。
アズは干し草の上から起き上がろうとした。薄いシーツの中に干し草が入り込み、手足がチクチクする。アズが起き上がる気配を察知し、男が振り向いた。肌が日焼けし、髪は赤茶色に褪せている。鼻が大きく、左目の下から頬にかけて大きな傷が走っていた。
男は鋭い眼光で、今は使われていない畜舎の干し草の上に座り込むアズを見つめた。アズはぼんやり考えた。牛を飼っていたのだろう、町への荷運び用に。牛はいついなくなったんだ? その疑問はこう言い換えることもできる。あの人が世俗との交流を断ってどれくらい
男が口を開いた。低くしゃがれた声だった。
「ズタズタにしやがって」
住居と一体化した牛の寝床で、アズは木の柵に背中をもたせかけた。
「熊の毛皮のことだ」男は言葉を続けた。「首をスパッと切り落としてくれりゃあ、高く売れたのによ」
そして竈と向かい合う。男は
それをアズのところまで持ってくる。
開け放たれた柵から男はスープを差し出した。
「食え」
ゆっくり上げるアズの両手はまだ重かった。木材越しにスープの温かさが伝わってくる。自然の中で孤独に暮らしていたせいか、男の眼光は厳しく鋭かったが、アズへの拒絶はなかった。年は五十を過ぎたかどうかといったところだ。都市部に暮らすこの年代の人々と比べれば、逞しく、健康的だ。
「お怪我はございませんか」
かすれているが弱々しい声ではなかったのでアズは安心した。男は唇を釣り上げて、肩を揺すった。
「身の程知らずだな」
どうやら笑ったつもりだったらしい。彼は竈の前に戻り、自分のスープを椀にすくうと、畜舎に入ってきて干し草の上に
肉を咀嚼するとぶっきらぼうに言い放つ。
「公教会の『天使』たあ、変わった行き倒れだ」
アズは目を動かした。荷物一式はきちんと枕もとに並べ置かれていた。
「どういう事情だ」
猟師は重々しく問いかける。
「言えません」
「だろうな」
「助けていただきありがとうございます」
もう一度、スープで口を湿らせてからアズは一礼した。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「言えん」
会話が絶えた。二人はしばらく黙々と食事に専念した。
「もう一杯食え」
椀が空になると、男はすかさず言った。
「お前が仕留めた熊だ」
結局、アズはスープを三杯も
「今すぐ横になれ」
三杯目が椀から消えてすぐ、男は命じた。口をゆすぎたかったのだが、言われたとおりにすると、男はアズの傍らに両膝をつき、両手を重ねて
真剣な目をアズの胸に落としながら、呼吸を合わせてくる。
やがて胸に置かれた両手から温かいものが体内にしみ込んできた。アズはその力を理解し、驚きとともに受け入れた。『
「あなたは」つい口を開いた。「何者なのですか。猟師ではなかったのですか」
「こう見えて修道士なんだがな」
「なぜ『塗油』の言葉つかいが――」
「黙れ」
胸に圧が加わった。
「喋られると呼吸があわん」
ほどなくして眠りに落ちた。
※
「ああ、そうかい」
朝になっても修道士はアズを追い出そうとしなかったが、立ち去るというのを引き止めるでもなかった。朝日の中で
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「そりゃお互い様だ」
「教えていただきたいことがあるのですが」
斧を食い込ませた木材を振り上げて、修道士は動きを止めた。鋭い目がアズを捕らえる。
「ここはどの辺りなのでしょうか。近くに大きな町は」
「……どちらがいい。グロリアナか南ルナリアだ」
「では南ルナリアへ」
「ふん。そのほうが近い」
修道士は斧ごと木材を切り株へと振り下ろし、二つに割った。それから、道順と、
「ありがとうございます。必ずや返礼に戻って参ります」
「アンズだ」修道士は言った。「旬の季節に来るのなら、生でな」
なんのことはない。手土産を要求されたのだ。アズはもう一度、深く頭を下げた。