遺物
文字数 2,121文字
※
今しがた大股で上った坂を振り返ると、暮れなずみ、しかと見通せなくなった荒れ野の果てに消えていく一団がまだ見えていた。
死者だ。
あれを追わないと、と、チルーは考えた。それが自分の意志であることを、もはやわかっていた。小さな町から、新しい死者たちが列をなして出発し、扇動者を失った巡礼についていく。
チルーは用心しながら町に戻る。
リリスを一度見失ったものの、キウと呼ばれた男が小さな家の戸口で死んでいるのを見て、ここだと直感した。上がり込み、チルーはたじろいだ。入ってすぐのところに迷宮の壁が立ちはだかっていたのだ。家の中なのに。
お陰で外の光が入らず、暮れゆく今、壁の向こうは深夜のように真っ暗に感じられた。それでも、家本来の壁と迷宮の壁の細い隙間を通ると、その向こうにも窓があり、慣れれば様子を把握できた。
リリスは壁に右手を当てて立っていた。チルーを一瞥 すると、壁の一部を見るよう顎で促した。
胸の高さに、黒い突起物が五つ、壁から飛び出していた。チルーは首をかしげる。膝を屈めて突起物に顔を寄せ、その正体を悟るやいなや、ヒュッ、と息を吸い込みながら後ろに飛び退 いた。
人間の、恐らくは子供の指だった。
壁の中にいる。
指だとわかったのは、先端に骨が見えたからだ。
あの男は毎日、この指に触れ、頬ずりし、打ちひしがれたのだろう。黒く乾燥した指がすり切れても、触れずにいられなかったのだろう。
リリスははじめ右手で、やがて両手で、粘土のように壁をかきわけ、引きちぎり、中のものを出そうとした。作業すること数分、白いシャツの襟 が現れた。襟から伸びる首は白く、本来の色を留めている。その保存状態の良さはチルーを嫌悪させた。子供がどんな表情で死んだのかを見るのだけは避けたかった。幸いリリスも同感のようだった。
襟から胸、そして肩へ、壁が取り除かれていった。リリスは壁から出ているのと反対の手を掘り出そうとしていた。
意図はなんとなくわかった。
キウは言葉つかいに余計な手出しをした、と魔女は言った。その結果、どういうわけだか家の中に壁が出現し、娘を喪 ったのだろう。
その災厄の手掛かりが残されているかもしれない。
無言の作業。無言の見守り。もはや空に光はない。なお続ける。
リリスが息をのんだ。異質のものに触れたらしい。作業する手が早く、そしてより注意深くなった。
壁の中の何かが、雲に残る茜の色彩を映した。チルーはコートのポケットからマッチを取り出した。一本擦って近付ける。
連なるビーズが見えた。細い鎖に通されている。
数珠 だ。
マッチはたちまち燃え尽きた。
一層深さを増した暗がりで、ついぞ子供の左手があらわになった。ロザリオはその小さな手に絡められていた。
マッチを擦る。明るくなる。リリスが子供の手からロザリオを外そうとする。マッチが消える。暗くなる。またマッチを擦る。
三本消費したところで、リリスは死者の手からビーズと鎖を自由にした。遺体同様、ロザリオにも劣化は見られない。だがまだ先端の聖四位一体紋は壁の中。
四本目のマッチを擦る。
左手にビーズと鎖を握りしめたリリスは、右手の指で壁をかき分け……聖四位一体紋をほじくりだし……壁の材質を払い除ける。チルーが近付けたマッチの火にかざし、裏返した。
文字が彫られていた。
教皇庁の紋章つきだ。
リリスが読む。
予期せぬことに、チルーはリリスの様子から、恐怖と動揺の気を感じ取った。
動揺の伝播 。
チルーがリリスの顔を見やるのと、リリスが叫ぶのが同時だった。
「お父さん!」
呆気 にとられるチルーの前で、リリスはロザリオを強く握りしめた。そのときマッチが消え、辺 りは闇となった。
※
敷き詰められた雲に滲むのは、今や月光だけだった。戸外に出ているのは、死んだ人間と、魔女になりたい子供だけ。炭焼きの家では赤々と燃える竃 が開け放たれ、その前で、子供が、昼間と同じ憎しみの目でチルーたちを見ていた。
あの子供がまだ生きていたことにチルーは驚いた。足音を立てずに眼前を通過し、今度こそ町を出る。
死者たちが消えたほうへ、西へ。悪い魔女が逃げたほうへ。
チルーはリリスにぴたりと寄り添っていた。風に吹かれるリリスの髪が顔に当たるほど。
「今夜はどうするの?」
答えは簡単。
「歩くしかないよ」
横たわる上り坂に、息を弾ませる。
朝になれば町を見つけられるだろうか。毛布が欲しい。できれば風雨を凌げる壁と屋根と、もし贅沢が許されるなら、温かいスープが欲しい。
「リリスちゃん」口の中にあるのがせめて温かい言葉であればいいのに。「リリスちゃんは、死にたいの?」
返ってきたのは、ふふっ、という笑い声。
月光を含んだ雲の下、リリスは手を繋いできた。
歩くのだ。足許が見えなくても。
チルーは疲れていた。だから、リリスの無言の返答を許した。
心は不思議だ。拒絶しながら受け容 れることができる。
今しがた大股で上った坂を振り返ると、暮れなずみ、しかと見通せなくなった荒れ野の果てに消えていく一団がまだ見えていた。
死者だ。
あれを追わないと、と、チルーは考えた。それが自分の意志であることを、もはやわかっていた。小さな町から、新しい死者たちが列をなして出発し、扇動者を失った巡礼についていく。
チルーは用心しながら町に戻る。
リリスを一度見失ったものの、キウと呼ばれた男が小さな家の戸口で死んでいるのを見て、ここだと直感した。上がり込み、チルーはたじろいだ。入ってすぐのところに迷宮の壁が立ちはだかっていたのだ。家の中なのに。
お陰で外の光が入らず、暮れゆく今、壁の向こうは深夜のように真っ暗に感じられた。それでも、家本来の壁と迷宮の壁の細い隙間を通ると、その向こうにも窓があり、慣れれば様子を把握できた。
リリスは壁に右手を当てて立っていた。チルーを
胸の高さに、黒い突起物が五つ、壁から飛び出していた。チルーは首をかしげる。膝を屈めて突起物に顔を寄せ、その正体を悟るやいなや、ヒュッ、と息を吸い込みながら後ろに飛び
人間の、恐らくは子供の指だった。
壁の中にいる。
指だとわかったのは、先端に骨が見えたからだ。
あの男は毎日、この指に触れ、頬ずりし、打ちひしがれたのだろう。黒く乾燥した指がすり切れても、触れずにいられなかったのだろう。
リリスははじめ右手で、やがて両手で、粘土のように壁をかきわけ、引きちぎり、中のものを出そうとした。作業すること数分、白いシャツの
襟から胸、そして肩へ、壁が取り除かれていった。リリスは壁から出ているのと反対の手を掘り出そうとしていた。
意図はなんとなくわかった。
キウは言葉つかいに余計な手出しをした、と魔女は言った。その結果、どういうわけだか家の中に壁が出現し、娘を
その災厄の手掛かりが残されているかもしれない。
無言の作業。無言の見守り。もはや空に光はない。なお続ける。
リリスが息をのんだ。異質のものに触れたらしい。作業する手が早く、そしてより注意深くなった。
壁の中の何かが、雲に残る茜の色彩を映した。チルーはコートのポケットからマッチを取り出した。一本擦って近付ける。
連なるビーズが見えた。細い鎖に通されている。
マッチはたちまち燃え尽きた。
一層深さを増した暗がりで、ついぞ子供の左手があらわになった。ロザリオはその小さな手に絡められていた。
マッチを擦る。明るくなる。リリスが子供の手からロザリオを外そうとする。マッチが消える。暗くなる。またマッチを擦る。
三本消費したところで、リリスは死者の手からビーズと鎖を自由にした。遺体同様、ロザリオにも劣化は見られない。だがまだ先端の聖四位一体紋は壁の中。
四本目のマッチを擦る。
左手にビーズと鎖を握りしめたリリスは、右手の指で壁をかき分け……聖四位一体紋をほじくりだし……壁の材質を払い除ける。チルーが近付けたマッチの火にかざし、裏返した。
文字が彫られていた。
教皇庁の紋章つきだ。
リリスが読む。
予期せぬことに、チルーはリリスの様子から、恐怖と動揺の気を感じ取った。
動揺の
チルーがリリスの顔を見やるのと、リリスが叫ぶのが同時だった。
「お父さん!」
※
敷き詰められた雲に滲むのは、今や月光だけだった。戸外に出ているのは、死んだ人間と、魔女になりたい子供だけ。炭焼きの家では赤々と燃える
あの子供がまだ生きていたことにチルーは驚いた。足音を立てずに眼前を通過し、今度こそ町を出る。
死者たちが消えたほうへ、西へ。悪い魔女が逃げたほうへ。
チルーはリリスにぴたりと寄り添っていた。風に吹かれるリリスの髪が顔に当たるほど。
「今夜はどうするの?」
答えは簡単。
「歩くしかないよ」
横たわる上り坂に、息を弾ませる。
朝になれば町を見つけられるだろうか。毛布が欲しい。できれば風雨を凌げる壁と屋根と、もし贅沢が許されるなら、温かいスープが欲しい。
「リリスちゃん」口の中にあるのがせめて温かい言葉であればいいのに。「リリスちゃんは、死にたいの?」
返ってきたのは、ふふっ、という笑い声。
月光を含んだ雲の下、リリスは手を繋いできた。
歩くのだ。足許が見えなくても。
チルーは疲れていた。だから、リリスの無言の返答を許した。
心は不思議だ。拒絶しながら受け