恩義の光景
文字数 2,552文字
※
『どうしたの?』
『黙っていたらわからないよ』
『勇気を出して話してごらん』
両親がスアラを罵ったり、暴力を振るうようになってから、周囲の大人はしばしばこう言うようになった。それで? 結果はいつもこうだ。「それでも親なんだから」、終わり。
勇気を出せ?
そんな要求をする奴を二度と信じてなるものか。
スアラは憎悪を滾 らせながら、それでいて泣き出しそうなほど困惑しながら家に帰り着いた。すぐには玄関に入らず、まず横手に回る。
壁に背をつけて、一階の父の仕事部屋に顔を向けた。窓ガラスの向こうで筆記具を整理する音がした。
いる。
スアラは息詰めて家の正面に戻り、今度は反対側から裏に回り込み、裏口の鍵を開けた。キッチンに上がり、靴を脱いで手に下げる。
靴下越しに床の冷気を感じながら、摺り足でキッチン、そしてダイニングを横切った。今あの男が部屋から出てきませんように!
何に祈っているのだろう、と、ダイニングの戸を開けながら考えた。神の象徴を昨夜も釘で滅多刺しにしたばかりではないか。
廊下に出て、ほとんど音を立てずに戸を閉ざす。慎重にドアノブから手を離し、階段に足を置いた。一段。二段。
あの男が家にいる以上、長居は無用。鞄だけ回収したらすぐに学校に戻らなくては。
それでも、自室にたどり着くと安堵と疲労の波が襲いかかってきた。結局、一番安心できるのは自室なのだ。ベッドにもぐり込みたい。何に疲れたかわからないが疲れきっている。
でも、眠るのに部屋の鍵がない。
それが気がかりだった。
やっぱり、もう一回買ってこようか。一度はそう考えて、すぐに否定する。そんなことをしたら今度は部屋の戸を外されかねない。あの男ならやる。スアラを支配し、言うことを聞かせるためならどんなことだってする下衆 だ。身にしみて知っている。
やはり学校に戻るのが一番安全だ。スアラは素早く制服に着替えたが、髪を梳いたり、身だしなみを整える余裕はなかった。椅子の上に置いたままの通学鞄を右手に取り、左手に靴を持ち直して、頭を振り、気持ちを切り替えて、部屋から一歩めを踏み出した。
階下で大きな音を立てて玄関扉が開いたのはそのときだった。
「スアラ! いるの!?」
刺すようなレティの声にスアラは凍りついた。一歩後退し、部屋に戻る。が、そうしたところで退路はない。
仕事部屋から、あの男が出てくる気配。二人は何か会話をし、恐らくわざと聞こえるようにレティが言い放った。
「制服も着てないし、教科書も持たずに学校に行って取りに戻されたんですって。あなたからも何か言ってやってくださいな」
「何だと? スアラ!」
二人の足音が階段を上がってくる。
「いるなら返事をしろ」
あの男から一歩でも距離を置くべく、スアラはいよいよ部屋の奥、窓辺にまで後退した。両手をあけたかった。だが、靴を手放せばいざというとき逃げられない――履けばいいじゃないか!
靴を床に置いたとき、タリムの荒い足音が階段を上りきった。爪先を靴に突っ込む。鞄を置こうとし、その足音が廊下をやってくるのを聞いて、考え直した。鞄は身を守るのに使える。
今や鼓動は早鐘を打ち、顔は熱く、うなじに汗が滲んでいた。それでいて、寒く、まず膝が、次に体が震え始めた。両肩が張って硬直し、鞄を胸に押しつける腕は感触がない。
その状態で、スアラは戸口に現れた敵を出迎えた。
ついぞその男を目にしたとき、時が止まった心地がした。願望でもあった。全てが凍りつけば、何もされなくて済む。
タリム・セリスが口を開いた。
「何をやってるんだ、お前は」
男の後ろには、無表情の母親が立っていた。目を廊下の突き当たりに向け、スアラを見ようともしない。
スアラは事実だけ口にした。
「鞄を取りにきたの」
「鞄を取りにきたのじゃないだろう。お前、夜中じゅうどこにいたんだ」
どう答えようか。
『どこにもいなかったよ』
ああ、きっとこれが一番正しい答えなんだ。私はどこにもいなかった。きっと、今もいない。この世界は私の場所じゃないんだ。
黙り込むスアラに、いささか意外な問いが放たれた。
「男がいるんじゃないだろうな」
その発想に驚かないでもなかったが、スアラはただ視線に軽蔑の色を混ぜて、沈黙を続けた。母親は未だにあらぬほうを向いている。
「悪い友達か?」
小さな頃から、スアラがこの男に殴られたり外に引きずり出されているとき、母に目を向ければ、いつも必ず冷たい背中を見ることになったのだ。
先刻とは違い、もはや憎悪は煮え滾っていなかった。ただ、冷たい、冷たい――。
「私に友達がいるわけないでしょ」
それを聞き、レティが被害者のように深くため息をついた。
スアラは目の力だけで男が入ってくるのを押し留めようとした。相手が言った。
「お前、言ってて悲しくならないのか?」
レティがついに背中を向けた。
行くんだ、と、スアラは諦めながら受け入れた。この男が私をどうしたいと思っているのか知りながら、二人きりにさせるんだね。
強烈な言葉が思考に挿入されたのはそのときだった。
〈自己憐憫しか能がないバカ女〉
動揺したスアラの網膜に、無言のうちに去っていくレティの後ろ姿が焼き付いた。彼女はすぐにいなくなった。
スアラは、動揺を隠すために言葉を発さなければならなかった。何でもいい。
「お父さんが言わせてるんでしょ」
〈自己憐憫しか能がないバカ女〉
静かに自問する。誰のことなの?
去っていく母親の姿が目に焼き付いたままだった。
「情けない」
まさか……お母さん? 私はお母さんに対してそんなことを思ったの?
「自分の心の弱さまで親のせいか」
嘘だ。違う。きっと私のことなんだ。お母さんのことじゃない。そんなわけ、ない。
タリムが一歩、部屋に入ってきた。スアラは鞄をきつく胸に押しつけた。背中を壁につけ、尻を守る。
もう一歩。
今度は、スアラは窓を一瞥 した。それから音を立て、大きく息を吸い込んだ。その行為に何かを感じ取り、タリムは足を止めた。
さあ、入ってきなさい。
スアラは待ち受ける。近所に丸聞こえの声で大騒ぎしてやるんだから。
威圧と牽制の時が過ぎた。それを緩めたのはタリムのほうだった。
「スアラ」
部屋を出ていくとき、男は言った。
「大人になれ」
『どうしたの?』
『黙っていたらわからないよ』
『勇気を出して話してごらん』
両親がスアラを罵ったり、暴力を振るうようになってから、周囲の大人はしばしばこう言うようになった。それで? 結果はいつもこうだ。「それでも親なんだから」、終わり。
勇気を出せ?
そんな要求をする奴を二度と信じてなるものか。
スアラは憎悪を
壁に背をつけて、一階の父の仕事部屋に顔を向けた。窓ガラスの向こうで筆記具を整理する音がした。
いる。
スアラは息詰めて家の正面に戻り、今度は反対側から裏に回り込み、裏口の鍵を開けた。キッチンに上がり、靴を脱いで手に下げる。
靴下越しに床の冷気を感じながら、摺り足でキッチン、そしてダイニングを横切った。今あの男が部屋から出てきませんように!
何に祈っているのだろう、と、ダイニングの戸を開けながら考えた。神の象徴を昨夜も釘で滅多刺しにしたばかりではないか。
廊下に出て、ほとんど音を立てずに戸を閉ざす。慎重にドアノブから手を離し、階段に足を置いた。一段。二段。
あの男が家にいる以上、長居は無用。鞄だけ回収したらすぐに学校に戻らなくては。
それでも、自室にたどり着くと安堵と疲労の波が襲いかかってきた。結局、一番安心できるのは自室なのだ。ベッドにもぐり込みたい。何に疲れたかわからないが疲れきっている。
でも、眠るのに部屋の鍵がない。
それが気がかりだった。
やっぱり、もう一回買ってこようか。一度はそう考えて、すぐに否定する。そんなことをしたら今度は部屋の戸を外されかねない。あの男ならやる。スアラを支配し、言うことを聞かせるためならどんなことだってする
やはり学校に戻るのが一番安全だ。スアラは素早く制服に着替えたが、髪を梳いたり、身だしなみを整える余裕はなかった。椅子の上に置いたままの通学鞄を右手に取り、左手に靴を持ち直して、頭を振り、気持ちを切り替えて、部屋から一歩めを踏み出した。
階下で大きな音を立てて玄関扉が開いたのはそのときだった。
「スアラ! いるの!?」
刺すようなレティの声にスアラは凍りついた。一歩後退し、部屋に戻る。が、そうしたところで退路はない。
仕事部屋から、あの男が出てくる気配。二人は何か会話をし、恐らくわざと聞こえるようにレティが言い放った。
「制服も着てないし、教科書も持たずに学校に行って取りに戻されたんですって。あなたからも何か言ってやってくださいな」
「何だと? スアラ!」
二人の足音が階段を上がってくる。
「いるなら返事をしろ」
あの男から一歩でも距離を置くべく、スアラはいよいよ部屋の奥、窓辺にまで後退した。両手をあけたかった。だが、靴を手放せばいざというとき逃げられない――履けばいいじゃないか!
靴を床に置いたとき、タリムの荒い足音が階段を上りきった。爪先を靴に突っ込む。鞄を置こうとし、その足音が廊下をやってくるのを聞いて、考え直した。鞄は身を守るのに使える。
今や鼓動は早鐘を打ち、顔は熱く、うなじに汗が滲んでいた。それでいて、寒く、まず膝が、次に体が震え始めた。両肩が張って硬直し、鞄を胸に押しつける腕は感触がない。
その状態で、スアラは戸口に現れた敵を出迎えた。
ついぞその男を目にしたとき、時が止まった心地がした。願望でもあった。全てが凍りつけば、何もされなくて済む。
タリム・セリスが口を開いた。
「何をやってるんだ、お前は」
男の後ろには、無表情の母親が立っていた。目を廊下の突き当たりに向け、スアラを見ようともしない。
スアラは事実だけ口にした。
「鞄を取りにきたの」
「鞄を取りにきたのじゃないだろう。お前、夜中じゅうどこにいたんだ」
どう答えようか。
『どこにもいなかったよ』
ああ、きっとこれが一番正しい答えなんだ。私はどこにもいなかった。きっと、今もいない。この世界は私の場所じゃないんだ。
黙り込むスアラに、いささか意外な問いが放たれた。
「男がいるんじゃないだろうな」
その発想に驚かないでもなかったが、スアラはただ視線に軽蔑の色を混ぜて、沈黙を続けた。母親は未だにあらぬほうを向いている。
「悪い友達か?」
小さな頃から、スアラがこの男に殴られたり外に引きずり出されているとき、母に目を向ければ、いつも必ず冷たい背中を見ることになったのだ。
先刻とは違い、もはや憎悪は煮え滾っていなかった。ただ、冷たい、冷たい――。
「私に友達がいるわけないでしょ」
それを聞き、レティが被害者のように深くため息をついた。
スアラは目の力だけで男が入ってくるのを押し留めようとした。相手が言った。
「お前、言ってて悲しくならないのか?」
レティがついに背中を向けた。
行くんだ、と、スアラは諦めながら受け入れた。この男が私をどうしたいと思っているのか知りながら、二人きりにさせるんだね。
強烈な言葉が思考に挿入されたのはそのときだった。
〈自己憐憫しか能がないバカ女〉
動揺したスアラの網膜に、無言のうちに去っていくレティの後ろ姿が焼き付いた。彼女はすぐにいなくなった。
スアラは、動揺を隠すために言葉を発さなければならなかった。何でもいい。
「お父さんが言わせてるんでしょ」
〈自己憐憫しか能がないバカ女〉
静かに自問する。誰のことなの?
去っていく母親の姿が目に焼き付いたままだった。
「情けない」
まさか……お母さん? 私はお母さんに対してそんなことを思ったの?
「自分の心の弱さまで親のせいか」
嘘だ。違う。きっと私のことなんだ。お母さんのことじゃない。そんなわけ、ない。
タリムが一歩、部屋に入ってきた。スアラは鞄をきつく胸に押しつけた。背中を壁につけ、尻を守る。
もう一歩。
今度は、スアラは窓を
さあ、入ってきなさい。
スアラは待ち受ける。近所に丸聞こえの声で大騒ぎしてやるんだから。
威圧と牽制の時が過ぎた。それを緩めたのはタリムのほうだった。
「スアラ」
部屋を出ていくとき、男は言った。
「大人になれ」