安らぎが見えるまで
文字数 3,224文字
※
「でもよ、教会の管理下にない言葉つかいの行き場なんて決まってるだろ?」
猫に餌をやり、ルーは部屋に戻ってきた。彼は書き物机からガタついた椅子を出し、腰掛けて、背もたれに左腕をかけた。
アズは部屋の中央のテーブルの下から椅子を一脚出した。そこは使った食器の仮置き場になっていた。もっとも、いつから仮置きされているかはわからない。茶色い汚れがこびりついた安物の食器に二匹のゴキブリがたかっているのを見、そっと椅子を戻した。
「よくて異端の教祖様。最近の就職先は抵抗教会か? 革命軍か? 奴らは言葉つかいが欲しくてたまらねぇからな。引抜き が後を絶たないそうだぜ。『司教座 に座る資格のない豚を捨ててオレたちに飼われませんか?』ってよ。で?」
アズは汚いものを視界に入れたくないので、窓の外を見ることにした。タイルで飾られたドーム屋根がきらめいているのが見えた。名高いフクシャ歌劇場だ。
「で、アズよ。殺すつもりなのか?」
「誰を?」
「とぼけんな」
学生二人の顔写真を思い浮かべながら、ため息と共にかぶりを振る。
「答えたくない」
教会の権威は絶対だ。たとえ大司教の口を通して放たれる命令が、年端 の行かない少女たちを追いかけ回して殺せ、であっても。
「嫌になっちまうぜ」
「じゃあお前ならどうする、ルー。命令が不満だからって抵抗教会に寝返るのか?」
「殺すしかないだろうな」
そう答えてから、言い訳のようにルーは付け足した。
「子供でも、言葉つかいは言葉つかい。野に放てば脅威だ」
「そんなこと、俺だってわかってる」
「かの有名なジャスマイン・ポロック」
ルーは安い舞台俳優のように腕を広げた。
「十一歳の反逆者。抵抗教会じゃ英雄。女子部の生徒が卒業者の能力と配属先を調べ上げて連中に渡すだなんて、誰が想像した?」
「彼女は逃げたという人もいる」
「西へ逃げたってか?」
暗くなっていく部屋でルーは口ずさむ。
「魔女は西へ逃げた、別の魔女が追った……って? まさか。学園が都合の悪いことを記録に残さないのは今に始まったことじゃない。隠蔽 体質ってヤツ。今回の件だってそうさ。奴らは各都市の駅や教会に連絡を入れるのが遅すぎた。今頃逃げた『魔女』たちだって徒歩の旅に切り替えてるさ。賢けりゃ駅を警戒するね、絶対」
アズはその話を半分聞き流した。
「その歌は?」
「知らないのかよ? まあ無理もないか。フクシャの北に魔女の町があるのさ。荒野 にある古い町だ。教会を嫌うような。でもって荒野の向こうの谷には『泥すすり』が出る」
「泥すすり?」
「人の心の澱 を啜 るんだ。啜られた奴は廃人になる」
困惑しながらアズは尋ねた。
「それは星獣か?化生 か?」
「化生になりかけた星獣ってとこか。言い伝えじゃ、人間の乗り物だった名残があるって話だからな」
星獣など、とうに自動車に取って代わられた。維持する者も、作り出す者もいない。半ば伝説の存在だ。
「驚いたな。生き残りの星獣がいるなんて」
「それを飼い慣らした奴がいる」
暗くなりつつある部屋で、だらしなく座るルーに目を移す。彼の口調は軽いが、目つきは真剣だった。
「マジだぜ。信じられっか? 今じゃ星獣の住処 は革命軍の隠れ家だ。聖教軍も手出しできやしねぇ」
「学園の生徒たちはそこに向かったのか?」
「アリだな。カワイ子ちゃんたちが魔女の町を通ったなら。でもって西を目指したなら」
「勝手にかわいいと決めるな。何故西へ向かったと思うんだ?」
「魔女は西へ逃げた……」そう耳慣れぬ節を歌ってから、「っていうか、フクシャの北の魔女の町、そこから一番近いのが『泥すすり』の集落、そして隠れ家さ」
「まずいな。先回りしないと」でなければ、いよいよ本当に少女たちを処刑しなければならなくなる。「集落から革命軍の隠れ家にはどうやって行けばいい」
「古い地下霊廟が繋がってるって話だ。でも期待しないでおけよ。俺が見たわけじゃない」
「礼を言う。ありがとう」
天井からアズの足許 にゴキブリが落ちてきた。目にも留まらぬ速さでルーの足が踏み潰した。アズは露骨に眉を顰 めた。
「他に聞きたいことは?」
「最後に掃除をしたのはいつだ?」
ルーが顔つきを変えて睨むので、アズは質問を変えた。
「……魔女たちは最後どうなるんだ?」
「魔女?」
「逃げた魔女と、追った魔女は」
思いがけず意趣返しの機会が巡ってきたので、ルーは意地悪く笑った。
「自分で調べな」
※
ホテルの場所を教えてもらい、ルーのアパートメントから舗道に出た。空は菫 色の宝石のように暮れ、黒い外套の点灯夫が目の前を通り過ぎて行った。点灯夫は緑色に塗られた街灯のバルブを開き、火を入れた。周囲が温かく照らされて、夜の気配を際立たせた。アズは既に明るい通りへ、点灯夫はまだ暗い通りへ、寓話的な象徴のようにすれ違い、離れていった。
辻に出て左に曲がる
『十八番 だろ?』
いきなり頭に響く女の声。
『見捨てられた人間をさらに見捨てるのは』
アズは直感的に紳士服店と靴屋の間の暗がりを覗き込んだ。
『見返りを求めるべくもない相手には、ああだこうだと難癖つけて手助けしない理由にする』
これは。
こういう聞こえかたをするのは、生者の声ではない。
アズは路地の闇に身を浸した。
『したくないって言えよ。いい人ぶるなんて図々しい』
奥へ進むほど、女の悪態は明瞭になっていく。
『口だけ立派でお手々の汚れるようなことはしたくないって言えよ』
頭上には、屋根と屋根の隙間に太古から変わらぬきらめきを放つ一番星がいて、アズを見下ろしていた。
『誰も彼も偽善者』
図面用の筒を背負い直し、左手を掲げた。
『せめていい人そうにしないでいてくれたら、私だって期待しなかったし頼まなかった』
光はアズの利き手に下りてきた。
『私はまたやらかした。社交辞令を真に受けてバカを見る。いつもそう。どうして学習できないの?』
声の主はまだアズに気付いていない。
『私のほうこそ図々しいって思われた。あんなババアは所詮、赤の他人なのに』
摺り足で、奥へ。
『私たちは神の家の家族だなんて、甘いこと言われて、真に受けて、喜んじゃってさ』
右の壁が途切れた。
『そうだ。私は馬鹿なんだ。ずっと、死んでも治らない――』
アズは壁に沿って靴屋の裏手を覗き込んだ。微かな存在感の女が壁に寄りかかり、座っている。星の光を浴び、死者は弾かれたように顔を上げた。
「恐がらないでください」
先手を打ち、アズは腰を落として死者を宥めた。髪の長い、若い女だった。黒い冬物のワンピースに身を包んでいるが、コートやマフラーといった防寒具は身につけていなかった。
「教会の言葉つかいの者です。私の声が聞こえますか?」
話が通じ、理性があるならば、巡礼者でもはぐれ巡礼者でもない。目を見れば、言葉を理解していることは間違いない。アズは胸を撫で下ろした。安堵したのは女の方も同じで、彼女はアズを恐がるのをやめて睨みつけた。
『あっちに行って。言葉つかいなんかお呼びじゃない』
「ご愁傷様ですが、あなたはもう亡くなられています。いつまでもここにいては――」
『来るな!』
歩み寄ろうとすると、女は座り込んだまま声を荒らげた。
『来ないでよ! 私はここにいたいんだ。放っておいて!』
躊躇うアズをよそに、女は頭を抱える。
『いつから間違えたんだろう……』
嘆きを込めたため息。長いため息だった。立ち尽くすアズに、
『見ないでよ』
女はもう顔を向けず、手で追い払う仕草をした。
『安らぎが見えてくるまで、一人でこうしていたいんだ』
「でもよ、教会の管理下にない言葉つかいの行き場なんて決まってるだろ?」
猫に餌をやり、ルーは部屋に戻ってきた。彼は書き物机からガタついた椅子を出し、腰掛けて、背もたれに左腕をかけた。
アズは部屋の中央のテーブルの下から椅子を一脚出した。そこは使った食器の仮置き場になっていた。もっとも、いつから仮置きされているかはわからない。茶色い汚れがこびりついた安物の食器に二匹のゴキブリがたかっているのを見、そっと椅子を戻した。
「よくて異端の教祖様。最近の就職先は抵抗教会か? 革命軍か? 奴らは言葉つかいが欲しくてたまらねぇからな。
アズは汚いものを視界に入れたくないので、窓の外を見ることにした。タイルで飾られたドーム屋根がきらめいているのが見えた。名高いフクシャ歌劇場だ。
「で、アズよ。殺すつもりなのか?」
「誰を?」
「とぼけんな」
学生二人の顔写真を思い浮かべながら、ため息と共にかぶりを振る。
「答えたくない」
教会の権威は絶対だ。たとえ大司教の口を通して放たれる命令が、
「嫌になっちまうぜ」
「じゃあお前ならどうする、ルー。命令が不満だからって抵抗教会に寝返るのか?」
「殺すしかないだろうな」
そう答えてから、言い訳のようにルーは付け足した。
「子供でも、言葉つかいは言葉つかい。野に放てば脅威だ」
「そんなこと、俺だってわかってる」
「かの有名なジャスマイン・ポロック」
ルーは安い舞台俳優のように腕を広げた。
「十一歳の反逆者。抵抗教会じゃ英雄。女子部の生徒が卒業者の能力と配属先を調べ上げて連中に渡すだなんて、誰が想像した?」
「彼女は逃げたという人もいる」
「西へ逃げたってか?」
暗くなっていく部屋でルーは口ずさむ。
「魔女は西へ逃げた、別の魔女が追った……って? まさか。学園が都合の悪いことを記録に残さないのは今に始まったことじゃない。
アズはその話を半分聞き流した。
「その歌は?」
「知らないのかよ? まあ無理もないか。フクシャの北に魔女の町があるのさ。
「泥すすり?」
「人の心の
困惑しながらアズは尋ねた。
「それは星獣か?
「化生になりかけた星獣ってとこか。言い伝えじゃ、人間の乗り物だった名残があるって話だからな」
星獣など、とうに自動車に取って代わられた。維持する者も、作り出す者もいない。半ば伝説の存在だ。
「驚いたな。生き残りの星獣がいるなんて」
「それを飼い慣らした奴がいる」
暗くなりつつある部屋で、だらしなく座るルーに目を移す。彼の口調は軽いが、目つきは真剣だった。
「マジだぜ。信じられっか? 今じゃ星獣の
「学園の生徒たちはそこに向かったのか?」
「アリだな。カワイ子ちゃんたちが魔女の町を通ったなら。でもって西を目指したなら」
「勝手にかわいいと決めるな。何故西へ向かったと思うんだ?」
「魔女は西へ逃げた……」そう耳慣れぬ節を歌ってから、「っていうか、フクシャの北の魔女の町、そこから一番近いのが『泥すすり』の集落、そして隠れ家さ」
「まずいな。先回りしないと」でなければ、いよいよ本当に少女たちを処刑しなければならなくなる。「集落から革命軍の隠れ家にはどうやって行けばいい」
「古い地下霊廟が繋がってるって話だ。でも期待しないでおけよ。俺が見たわけじゃない」
「礼を言う。ありがとう」
天井からアズの
「他に聞きたいことは?」
「最後に掃除をしたのはいつだ?」
ルーが顔つきを変えて睨むので、アズは質問を変えた。
「……魔女たちは最後どうなるんだ?」
「魔女?」
「逃げた魔女と、追った魔女は」
思いがけず意趣返しの機会が巡ってきたので、ルーは意地悪く笑った。
「自分で調べな」
※
ホテルの場所を教えてもらい、ルーのアパートメントから舗道に出た。空は
辻に出て左に曲がる
『
いきなり頭に響く女の声。
『見捨てられた人間をさらに見捨てるのは』
アズは直感的に紳士服店と靴屋の間の暗がりを覗き込んだ。
『見返りを求めるべくもない相手には、ああだこうだと難癖つけて手助けしない理由にする』
これは。
こういう聞こえかたをするのは、生者の声ではない。
アズは路地の闇に身を浸した。
『したくないって言えよ。いい人ぶるなんて図々しい』
奥へ進むほど、女の悪態は明瞭になっていく。
『口だけ立派でお手々の汚れるようなことはしたくないって言えよ』
頭上には、屋根と屋根の隙間に太古から変わらぬきらめきを放つ一番星がいて、アズを見下ろしていた。
『誰も彼も偽善者』
図面用の筒を背負い直し、左手を掲げた。
『せめていい人そうにしないでいてくれたら、私だって期待しなかったし頼まなかった』
光はアズの利き手に下りてきた。
『私はまたやらかした。社交辞令を真に受けてバカを見る。いつもそう。どうして学習できないの?』
声の主はまだアズに気付いていない。
『私のほうこそ図々しいって思われた。あんなババアは所詮、赤の他人なのに』
摺り足で、奥へ。
『私たちは神の家の家族だなんて、甘いこと言われて、真に受けて、喜んじゃってさ』
右の壁が途切れた。
『そうだ。私は馬鹿なんだ。ずっと、死んでも治らない――』
アズは壁に沿って靴屋の裏手を覗き込んだ。微かな存在感の女が壁に寄りかかり、座っている。星の光を浴び、死者は弾かれたように顔を上げた。
「恐がらないでください」
先手を打ち、アズは腰を落として死者を宥めた。髪の長い、若い女だった。黒い冬物のワンピースに身を包んでいるが、コートやマフラーといった防寒具は身につけていなかった。
「教会の言葉つかいの者です。私の声が聞こえますか?」
話が通じ、理性があるならば、巡礼者でもはぐれ巡礼者でもない。目を見れば、言葉を理解していることは間違いない。アズは胸を撫で下ろした。安堵したのは女の方も同じで、彼女はアズを恐がるのをやめて睨みつけた。
『あっちに行って。言葉つかいなんかお呼びじゃない』
「ご愁傷様ですが、あなたはもう亡くなられています。いつまでもここにいては――」
『来るな!』
歩み寄ろうとすると、女は座り込んだまま声を荒らげた。
『来ないでよ! 私はここにいたいんだ。放っておいて!』
躊躇うアズをよそに、女は頭を抱える。
『いつから間違えたんだろう……』
嘆きを込めたため息。長いため息だった。立ち尽くすアズに、
『見ないでよ』
女はもう顔を向けず、手で追い払う仕草をした。
『安らぎが見えてくるまで、一人でこうしていたいんだ』