殺しあうまでもなく
文字数 4,864文字
※
爆発につきものの全て、衝撃波、音、炎が舗道を揺るがせた。民家の窓を割り、屋根瓦を落とした。近くの民家の陰に滑り込んだアズは、伏せて頭を庇いながら屋根瓦の割れる音を聞いた。腕の力を緩め、顔を上げる。
ルーは?
「信じられっか? 民家だぞ!」
日の光を浴びて、屋根の縁からアズを見下ろしていた。アズが手で合図をすると、家の外壁を歩いて下りてきた。
「説教してやりてぇ」
「無駄だ、連中には自分たちの崇高な目的しか見えていない。言葉つかいは俺が相手をする。お前は力を使わないほういい」
「はあ? 何か言ったか?」
アズは口に指を当て、耳を済ませた。
銃撃の音は聞こえなくなっていた。聞こえるのは、警官たちが揉める声。
「あっちは終わったみたいだな」
ルーは鋭い目つきでアズを見つめるのをやめない。
「わかってるだろう、ルー。お前はこの街で正体を隠してなければならないんだぞ」
「で? だったら自分の縄張りが荒らされるのを大人しく眺めてろって?」自分の太腿をピシャリと叩く。「ふぅん、そうか。まあお前だったらそうするんだろうな。犬だもんな。豚に飼われてる犬だもんな」
「どこまで口が悪いんだ。信じられない」
「は? 怒るのか?」
「呆れたんだ」
アズは民家の壁に背をつけ、通りを窺った。舗道の石畳はめくれ上がり、黒こげになっていた。
「奴らは退 くのか?」
ルーは憮然とした表情で、壁の穴を手で示した。
「撃ってみろよ」
アズは腰を落とし、拳銃を左手に持ち替えながら、用心深く穴に接近した。向こう側に人がいないか確かめようとして、思わぬものを見た。
青白く、薄汚れた足。裸足 の足、足、足。
迷宮を練り歩く死者の足。足音は立てない。群衆の足。巡礼団。
その足は、穴の向こうの通りを右から左へ流れていく。アズは背中に回した図面入れを下ろす。いつしか世界は無音だった。既にルーの姿は見えず、アズは一人きり。急ぎ足で、壁の向こうの死者の流れに逆流する。
壁が直角に折れ曲がる場所に出た。道なりに進むと、一歩ごとに遠くから音が戻ってくる。
少し遠くに、道端で腰を抜かしている男を見つけた。男もアズを見つけると、甲高い声で何か喚きながら手をばたつかせた。
駆け寄ると、男がいるのはカフェテラスの前だった。一段高いテラスから、困ったように女が見下ろしていた。二人の顔に見覚えがある。ホテルから飛び出したときにすれ違った若いカップルだ。
物言いたげな女と視線を合わせている間に、男がアズの脚にしがみついてきた。
「助けて、助けて! そこ、あの、人」
「巡礼があったんです」女は冷静だった。「私は二回目だし、本格的に巻き込まれたわけじゃないけど、彼は初めてだったみたいで」
「変に!」
脚に抱きついたまま男が見上げてきた。飼い主にしがみつく子犬のようだった。
「人がなんか、どんどん」
「落ち着いてください」
「顔が」
「大丈夫ですから――」
「白みたいな、ちょっと紫みたいな、黄色みたいな」
見かねて女が注釈を入れる。
「目の前で連れて行かれたみたいで」
「教えてください。巡礼団はどこに」
通りの先を指差し、「あっちのほうだけど、行ってどうするつもりなの?」
アズはロザリオを出し、教皇庁の紋章が入った聖四位一体を女の前に示した。
「言葉つかい」目にするや、女はテラスの段差を下りてきた「助けて。お願い」
「巡礼を斬らなくては」
「私、託児所の職員なんです。今日は休暇だったんですけど、見に行かないと。巡礼が向かうほうなの」
「フローレン!」男が血走った目で喚く。「まだそんなこと言ってんのかよ、早く逃げよう!」
「お願い、そんなに遠くないんです」
脚の自由を奪われている上に、今度はフローレンに右腕を取られた。
「お願いします。大人だってこんなに取り乱すのに、あの子たちはまだちっちゃい子供なの」
「わかりました」アズは諦めた。「案内していただけますか?」
「駄目ぇ!」
男は膝立ちになり、今度は腰にしがみついてきた。奪われないよう銃把に手を置くが、相手はお構いなしだ。
「あんな所に戻る気? 冗談じゃないよ! やめてよ! ねえ、早く逃げないと!」
「こちらの方とはお付き合いをされてらっしゃるのですか?」
「彼は――」
更に喚く。
「かわいそうだけど諦めよう!」
フローレンは足をあげ、踵を男のこめかみに押し付けた。そして、そのまま蹴倒した。男は舗道にひっくり返り、アズを解放した。
フローレンは冷たく、「もう違う」
彼女について歩けば、外傷のない死体が道に転がるようになった。舗道の真ん中でうつ伏せていたり、花壇に顔を突っ込んでいたり、膝立ちになって両手を壁に添え、壁が窓であるかのようにじっと覗き込んで死んでいる人たち。おどおどしながら誰かを探し回る老人とすれ違った。
「あそこ」
フローレンが、広いポーチを具 えた木造住宅を指さした。直後、耐えきれぬとばかりに駆け出した。ポーチの階段を段飛ばしで上がり、真鍮のドアノブを掴む。鍵はかかっていなかった。どこかで集団パニックが起きていた。男女の叫喚 が聞こえる。フローレンの言う通りだ。大人でも取り乱す。
それで、子供たちは?
結論を先に言えば、誰も取り乱していなかった。斜めの屋根、天窓。明るい日差しが降り注ぐエントランスの正面に両開きの扉があり、それを開け放って、フローレンは立ち尽くした。
アズは大股で歩み寄り、フローレンの肩越しに部屋の様子を窺った。中央に円 いカーペットが敷かれた広い部屋で、吊るし飾りや子供たちの絵が壁を彩っていた。柵つきのベビーベッド、木馬、つづら折りの傾斜に玉を転がして遊ぶ木製のおもちゃ、積み木、ブリキの兵隊、布のボール、子供たちはというと――二十人弱の、本当に小さな子供たちだった――誰も声を出さず、指をくわえたり、ぬいぐるみを抱いたりしながら座って窓のほうを見ていた。
何故みんな窓辺で死ぬのだろう、とアズは考えた。このような場面で考え事に走るのはある種の現実逃避である。窓辺で跪 き、桟 に顎を乗せて、白衣の老人が目を閉ざしていた。目を閉じても口は開いており、彼が最期に何を言ったのか知っている子供たちは、一人、また一人と戸口を振り向いた。取り乱さず、泣かず、見たもの全てを受け入れたがゆえの汚 れた目で、大人たちを見つめた。
フローレン。聖母と同じ名の女は、土足のまま部屋に上がり込んでいった。
「さあ、みんないらっしゃい。お昼寝の部屋に行くわよ」
子供たちはきびきび動くフローレンを顔で追うが、誰も立ち上がろうとしなかった。フローレンは部屋の奥のピンクのドアを開け、中の様子を確かめると、一人ずつ子供の脇の下に手を入れて立たせ始めた。
手伝ったものかと思案していると、外から窓が叩かれた。
窓の格子の向こうにルーの姿があった。
「お昼寝の部屋に行きましょうねー。おやつを食べたい子はいるかしら? 今日はたくさん食べてもいいのよ。ネネ、さあ、立ってごらん。お昼寝の部屋よ、お昼寝の部屋、お昼寝の部屋、お昼寝の部屋……」
死体を倒さないよう注意して窓を開ける。
「お前なにこんな所 で油売ってんだよ」
子供の一人が、ぼんやりした様子ながらもやっと言葉を発した。
「おひるねのへや……」
「すまん。託児所が気になって」フローレンが子供を半ば引きずるように連れて行くのを見ながら、「巡礼は?」
「追ってる最中だ。お前も来い」
「来てくれてありがとう!」
一歳くらいの子供を抱き上げながら、フローレンがアズを見て言った。
「ここはもう私一人で大丈夫。どうもありがとう」
アズはしばしの逡巡 ののち、フローレンの言葉を信じて一礼した。
猫のように軽々と窓から外に出る。
「こっちだ」
だが託児所を出て左に進み、最初の角を曲がったところで二人はすぐに立ち止まった。
男が一人、壁に向かって立っていた。
異常なのは、その左手首から先が迷宮の壁に沈んでいること。
石工だ。
右手で何か作業をしているようだ。アズが、そしてルーが、慎重に歩み寄る。次第に大股になり、走り出した。
後ろから覗き込むと、男は右手にドアノブを握りしめていた。
既にノブは台座ごと壁に取り付けられ、石工の言葉つかいは、背後の二人に気付かないのか、ドアノブを回し、引き、扉のように開けようと努力を繰り返している。
アズは無言で肩を掴み、強引に振り向かせた。
「聞こえるか」
髪は黒い縮毛 。顔はほとんど見えない。前髪が伸びて目を隠し、顔の下半分のほとんどを無精髭が覆っているのだ。
だが、髭の下の肌が異常であることは一目瞭然だった。ちょうどフローレンの元恋人が口走ったように、白のような、紫のような、黄色のような。
つまり血の気がない。
傷一つ負っていなくても、大量に血を抜かれたのだ。
「俺を見ろ」
左手で男の前髪をかきあげる。肌が冷たい。うつろな目が現れた。そこに懐かしい面影を見て、アズは叫んだ。
「タルボ!」
男の目は落ち窪 み、同窓生とは思えないほど老 け込んでいた。
「タル、どうしてなんだ? タル!」
ルーが強引にアズを押しのけた。
「タル。お前何を見た?」
張り詰めた声に頓着 せず、石工はまたも壁に向き合おうとする。ルーが肩を掴んで阻止すると、舗道に崩れ落ちた。
「タル!」
ルーも、そしてアズも、共に膝をついて男の顔を覗き込む。
「言ってみな、扇動者の型は? 型は何だ?」
まだ、理性があった。男はゆっくり目を閉ざし、また開ける。
「……お、う……」
また閉じた。
「王……」
今度は開かなかった。
舗道に寝かせながらルーが呻く。「さまよう王――」
アズはルーの鼻先に図面鞄を突き出した。
処刑刀はとうに腰に下がっていた。
「持っててくれ」
「よせ」二人は同時に立ち上がる。「王に勝てる言葉つかいはいねぇ」
「今まではいなかった」
「本気かよ!」
「俺だ」
「は?」
顔を背ける。
「王は俺について来たんだ」
一人で走り出した。
巡礼は、まだいる。
息絶え、道に点々と横たわる人の体を辿って進むと声が聞こえてきた。
近くにつれ、徐々に大きくなるのではなく、段階的に大きくなる特徴的な呻き。それが旋律として認識できる距離に来ると、周囲が暗闇になった。
瞬きを一つ。
闇が晴れる。
都市の通りには、アズ、そして死者たち。
巡礼の最後尾が見えていた。直進すれば行き止まり。壁が道を塞ぎ、その上に、白い太陽が煌々 と輝きを放っている。澄んだ空は明るいので、その下の死は、いっそ何か爽やかな出来事のようだ。
巡礼は、突き当たりの壁を折れて右へ。壁が落とす短い影に入り進む。アズもまた、光から影の中へ。
右に曲がる。
巡礼の死者が一人、列を離れ、道を戻ってくるのが見えた。
身構え、左手を処刑刀の柄に置く。
巡礼の真白き屍衣。
影から光へと、死者は出てきた。壁を離れて家々が身を寄せ合うほうへ。
無音のまま窓が開く。
誰かが家の中から腕を差し伸べた。その腕はシクラメンの鉢を舗道に落とした。
死者は歩み寄る。腕の方へ、音もなく割れたシクラメンの鉢へ。開かれた窓へ。
アズは水の流れのように走り、処刑刀を抜き放つ。
腰を落とし、突きの構え。
躊躇ない突進。巡礼者を刺し貫いても、手応えはなく、今日は小枝をへし折るときのポキッという音がした。
それを契機に、あらゆる音が戻ってきた。
道の向こうで荷車に死体を積む男たちの怒号。自動車の走行音。警官が吹き鳴らす呼子 。近しい人を呼び求む叫喚。啜り泣き。
「何てことを!」
窓から出た腕が、外套を着たアズの胸ぐらを掴んだ。窓辺に引き寄せられ、慌てて踏ん張りながら見れば、窓から身を乗り出すのは不健康な太りかたをした中年の女だった。
死にそびれた女は泣き叫ぶ。
「何てことを、この野郎!」
振り払うまでもなく、女の腕から力が抜け、アズを解放した。言葉もなく後ずさるアズは、視界の端に動くものを見つけた。
家と家の隙間から出てきた黒髪の女が拳銃を構えていた。
その目と銃口は、アズに狙いをつけていた。
爆発につきものの全て、衝撃波、音、炎が舗道を揺るがせた。民家の窓を割り、屋根瓦を落とした。近くの民家の陰に滑り込んだアズは、伏せて頭を庇いながら屋根瓦の割れる音を聞いた。腕の力を緩め、顔を上げる。
ルーは?
「信じられっか? 民家だぞ!」
日の光を浴びて、屋根の縁からアズを見下ろしていた。アズが手で合図をすると、家の外壁を歩いて下りてきた。
「説教してやりてぇ」
「無駄だ、連中には自分たちの崇高な目的しか見えていない。言葉つかいは俺が相手をする。お前は力を使わないほういい」
「はあ? 何か言ったか?」
アズは口に指を当て、耳を済ませた。
銃撃の音は聞こえなくなっていた。聞こえるのは、警官たちが揉める声。
「あっちは終わったみたいだな」
ルーは鋭い目つきでアズを見つめるのをやめない。
「わかってるだろう、ルー。お前はこの街で正体を隠してなければならないんだぞ」
「で? だったら自分の縄張りが荒らされるのを大人しく眺めてろって?」自分の太腿をピシャリと叩く。「ふぅん、そうか。まあお前だったらそうするんだろうな。犬だもんな。豚に飼われてる犬だもんな」
「どこまで口が悪いんだ。信じられない」
「は? 怒るのか?」
「呆れたんだ」
アズは民家の壁に背をつけ、通りを窺った。舗道の石畳はめくれ上がり、黒こげになっていた。
「奴らは
ルーは憮然とした表情で、壁の穴を手で示した。
「撃ってみろよ」
アズは腰を落とし、拳銃を左手に持ち替えながら、用心深く穴に接近した。向こう側に人がいないか確かめようとして、思わぬものを見た。
青白く、薄汚れた足。
迷宮を練り歩く死者の足。足音は立てない。群衆の足。巡礼団。
その足は、穴の向こうの通りを右から左へ流れていく。アズは背中に回した図面入れを下ろす。いつしか世界は無音だった。既にルーの姿は見えず、アズは一人きり。急ぎ足で、壁の向こうの死者の流れに逆流する。
壁が直角に折れ曲がる場所に出た。道なりに進むと、一歩ごとに遠くから音が戻ってくる。
少し遠くに、道端で腰を抜かしている男を見つけた。男もアズを見つけると、甲高い声で何か喚きながら手をばたつかせた。
駆け寄ると、男がいるのはカフェテラスの前だった。一段高いテラスから、困ったように女が見下ろしていた。二人の顔に見覚えがある。ホテルから飛び出したときにすれ違った若いカップルだ。
物言いたげな女と視線を合わせている間に、男がアズの脚にしがみついてきた。
「助けて、助けて! そこ、あの、人」
「巡礼があったんです」女は冷静だった。「私は二回目だし、本格的に巻き込まれたわけじゃないけど、彼は初めてだったみたいで」
「変に!」
脚に抱きついたまま男が見上げてきた。飼い主にしがみつく子犬のようだった。
「人がなんか、どんどん」
「落ち着いてください」
「顔が」
「大丈夫ですから――」
「白みたいな、ちょっと紫みたいな、黄色みたいな」
見かねて女が注釈を入れる。
「目の前で連れて行かれたみたいで」
「教えてください。巡礼団はどこに」
通りの先を指差し、「あっちのほうだけど、行ってどうするつもりなの?」
アズはロザリオを出し、教皇庁の紋章が入った聖四位一体を女の前に示した。
「言葉つかい」目にするや、女はテラスの段差を下りてきた「助けて。お願い」
「巡礼を斬らなくては」
「私、託児所の職員なんです。今日は休暇だったんですけど、見に行かないと。巡礼が向かうほうなの」
「フローレン!」男が血走った目で喚く。「まだそんなこと言ってんのかよ、早く逃げよう!」
「お願い、そんなに遠くないんです」
脚の自由を奪われている上に、今度はフローレンに右腕を取られた。
「お願いします。大人だってこんなに取り乱すのに、あの子たちはまだちっちゃい子供なの」
「わかりました」アズは諦めた。「案内していただけますか?」
「駄目ぇ!」
男は膝立ちになり、今度は腰にしがみついてきた。奪われないよう銃把に手を置くが、相手はお構いなしだ。
「あんな所に戻る気? 冗談じゃないよ! やめてよ! ねえ、早く逃げないと!」
「こちらの方とはお付き合いをされてらっしゃるのですか?」
「彼は――」
更に喚く。
「かわいそうだけど諦めよう!」
フローレンは足をあげ、踵を男のこめかみに押し付けた。そして、そのまま蹴倒した。男は舗道にひっくり返り、アズを解放した。
フローレンは冷たく、「もう違う」
彼女について歩けば、外傷のない死体が道に転がるようになった。舗道の真ん中でうつ伏せていたり、花壇に顔を突っ込んでいたり、膝立ちになって両手を壁に添え、壁が窓であるかのようにじっと覗き込んで死んでいる人たち。おどおどしながら誰かを探し回る老人とすれ違った。
「あそこ」
フローレンが、広いポーチを
それで、子供たちは?
結論を先に言えば、誰も取り乱していなかった。斜めの屋根、天窓。明るい日差しが降り注ぐエントランスの正面に両開きの扉があり、それを開け放って、フローレンは立ち尽くした。
アズは大股で歩み寄り、フローレンの肩越しに部屋の様子を窺った。中央に
何故みんな窓辺で死ぬのだろう、とアズは考えた。このような場面で考え事に走るのはある種の現実逃避である。窓辺で
フローレン。聖母と同じ名の女は、土足のまま部屋に上がり込んでいった。
「さあ、みんないらっしゃい。お昼寝の部屋に行くわよ」
子供たちはきびきび動くフローレンを顔で追うが、誰も立ち上がろうとしなかった。フローレンは部屋の奥のピンクのドアを開け、中の様子を確かめると、一人ずつ子供の脇の下に手を入れて立たせ始めた。
手伝ったものかと思案していると、外から窓が叩かれた。
窓の格子の向こうにルーの姿があった。
「お昼寝の部屋に行きましょうねー。おやつを食べたい子はいるかしら? 今日はたくさん食べてもいいのよ。ネネ、さあ、立ってごらん。お昼寝の部屋よ、お昼寝の部屋、お昼寝の部屋、お昼寝の部屋……」
死体を倒さないよう注意して窓を開ける。
「お前なにこんな
子供の一人が、ぼんやりした様子ながらもやっと言葉を発した。
「おひるねのへや……」
「すまん。託児所が気になって」フローレンが子供を半ば引きずるように連れて行くのを見ながら、「巡礼は?」
「追ってる最中だ。お前も来い」
「来てくれてありがとう!」
一歳くらいの子供を抱き上げながら、フローレンがアズを見て言った。
「ここはもう私一人で大丈夫。どうもありがとう」
アズはしばしの
猫のように軽々と窓から外に出る。
「こっちだ」
だが託児所を出て左に進み、最初の角を曲がったところで二人はすぐに立ち止まった。
男が一人、壁に向かって立っていた。
異常なのは、その左手首から先が迷宮の壁に沈んでいること。
石工だ。
右手で何か作業をしているようだ。アズが、そしてルーが、慎重に歩み寄る。次第に大股になり、走り出した。
後ろから覗き込むと、男は右手にドアノブを握りしめていた。
既にノブは台座ごと壁に取り付けられ、石工の言葉つかいは、背後の二人に気付かないのか、ドアノブを回し、引き、扉のように開けようと努力を繰り返している。
アズは無言で肩を掴み、強引に振り向かせた。
「聞こえるか」
髪は黒い
だが、髭の下の肌が異常であることは一目瞭然だった。ちょうどフローレンの元恋人が口走ったように、白のような、紫のような、黄色のような。
つまり血の気がない。
傷一つ負っていなくても、大量に血を抜かれたのだ。
「俺を見ろ」
左手で男の前髪をかきあげる。肌が冷たい。うつろな目が現れた。そこに懐かしい面影を見て、アズは叫んだ。
「タルボ!」
男の目は落ち
「タル、どうしてなんだ? タル!」
ルーが強引にアズを押しのけた。
「タル。お前何を見た?」
張り詰めた声に
「タル!」
ルーも、そしてアズも、共に膝をついて男の顔を覗き込む。
「言ってみな、扇動者の型は? 型は何だ?」
まだ、理性があった。男はゆっくり目を閉ざし、また開ける。
「……お、う……」
また閉じた。
「王……」
今度は開かなかった。
舗道に寝かせながらルーが呻く。「さまよう王――」
アズはルーの鼻先に図面鞄を突き出した。
処刑刀はとうに腰に下がっていた。
「持っててくれ」
「よせ」二人は同時に立ち上がる。「王に勝てる言葉つかいはいねぇ」
「今まではいなかった」
「本気かよ!」
「俺だ」
「は?」
顔を背ける。
「王は俺について来たんだ」
一人で走り出した。
巡礼は、まだいる。
息絶え、道に点々と横たわる人の体を辿って進むと声が聞こえてきた。
近くにつれ、徐々に大きくなるのではなく、段階的に大きくなる特徴的な呻き。それが旋律として認識できる距離に来ると、周囲が暗闇になった。
瞬きを一つ。
闇が晴れる。
都市の通りには、アズ、そして死者たち。
巡礼の最後尾が見えていた。直進すれば行き止まり。壁が道を塞ぎ、その上に、白い太陽が
巡礼は、突き当たりの壁を折れて右へ。壁が落とす短い影に入り進む。アズもまた、光から影の中へ。
右に曲がる。
巡礼の死者が一人、列を離れ、道を戻ってくるのが見えた。
身構え、左手を処刑刀の柄に置く。
巡礼の真白き屍衣。
影から光へと、死者は出てきた。壁を離れて家々が身を寄せ合うほうへ。
無音のまま窓が開く。
誰かが家の中から腕を差し伸べた。その腕はシクラメンの鉢を舗道に落とした。
死者は歩み寄る。腕の方へ、音もなく割れたシクラメンの鉢へ。開かれた窓へ。
アズは水の流れのように走り、処刑刀を抜き放つ。
腰を落とし、突きの構え。
躊躇ない突進。巡礼者を刺し貫いても、手応えはなく、今日は小枝をへし折るときのポキッという音がした。
それを契機に、あらゆる音が戻ってきた。
道の向こうで荷車に死体を積む男たちの怒号。自動車の走行音。警官が吹き鳴らす
「何てことを!」
窓から出た腕が、外套を着たアズの胸ぐらを掴んだ。窓辺に引き寄せられ、慌てて踏ん張りながら見れば、窓から身を乗り出すのは不健康な太りかたをした中年の女だった。
死にそびれた女は泣き叫ぶ。
「何てことを、この野郎!」
振り払うまでもなく、女の腕から力が抜け、アズを解放した。言葉もなく後ずさるアズは、視界の端に動くものを見つけた。
家と家の隙間から出てきた黒髪の女が拳銃を構えていた。
その目と銃口は、アズに狙いをつけていた。