信仰、希望、愛
文字数 4,787文字
1.
「信仰、希望、愛だ」
アズは夕食の席でトビィとレミを相手に講義している。が、場面が変わり、アズは学生で、隣の席にルーがいて、講義を受ける側に回ったので夢だとわかった。
覚めないでくれ。
「この中で最も優れているのは――」
もう一度トビィとレミに会わせてくれ。夢でもいい。だが場面は教室から変わらず、それさえ薄れていき、アズは車の後部座席で目を覚ました。
黄金 の朝日が車窓から差していた。今の時期、三日続けて晴天とは珍しい。どこかでヒヨドリが鳴いている。アズは身じろぎし、薄い毛布を鼻まで上げて、愛だ、と答えた。
愛。
俺は何を愛しているのだろう。
アズは結局、毛布を払い身を起こす。靴を履き、車を出た。バタンとドアの閉まる音が草原に鳴り渡る。
丘の下に南ルナリア市を見下ろすことができた。
それで、何を愛しているのかと、アズは自問する。兄弟?(見捨てるのに?) 家? 過去、もしかしたら未来、それか現在? 空? 世界?
見えるものと見えないもの。
実在の疑わしいもの。
わからない。けれど、確かに何かを愛している。
※
南ルナリアの検問で、アズは身分証の提示を求められた。アズが公教会の『天使』と知ると、聖教軍の横柄な兵士たちは態度を改め、車の窓の向こうから「お客様がお待ちです」と伝えた。
「客?」
アズは眉をひそめた。不機嫌でいらいらしていた。その理由は自分でもわからなかった。
「南ルナリア大聖堂に来るよう伝えてください。そこで会います」
「いえ、それがここでずっと待っておいででして――」
兵士が言い終えるより早く、検問横のカフェの扉が開いて、最も会いたくなかった男が姿を現した。
スーツに丸眼鏡。油で塗り固めた髪。今日も人を困惑させる、きっちり左右対称の笑みを作っている。アズは息を詰めた。検邪聖省の役人、セトラルだ。
役人は車の横で腰を屈め、ニコニコしながら運転席のアズに語りかけた。
「おはようございます、ラティアさん。お帰りをお待ちしておりました」
「何の御用ですか?」
アズはつっけんどんに尋ねるが、鼓動が早まっていくのを止められない。
「ここで話すというわけには行きません。一度車を下りていただくことは可能ですか?」
「不可能と言ったら?」
「ラティアさん、私はあなたのお手間を省かせていただくために申し上げているのです」
役人は笑顔を全く崩さなかった。
「車は南ルナリア大聖堂の事務員にでも回収に来させましょう。すぐそこに私の車がございますので、どうぞお乗り換えください。運転を代わらせていただきます」
「どこへ連れて行くおつもりですか?」
「ひとまずは、アルメラ丘教会へ」
両ルナリア一帯で唯一、異端審問を行う機能を有する教会だ。
「ふぅん」アズは冷たい怒りのきらめく目で役人を見つめながら、ゆっくり頷いた。「そうか」
そして一気にアクセルを踏み込んだ。
歩道を歩く人々が、驚いて硬直した。アズは全く減速せずにカーブを左折し、道を渡ろうとしていた老人にクラクションを鳴らし、猛スピードで直進した。
南ルナリア大聖堂には、通常三十分ほどかかるところを十分で到着した。
大聖堂の前庭は、霜が踏み荒されていた。轍の痕がある。アズは前庭の中央で車を停めると、エンジンを切らず、鍵も抜かず、運転席のドアを閉じることすらせずに、大聖堂右側の傾斜路 を駆け降りた。
扉を開き、地下の廊下に叫ぶ。
「マデラさん!」
反応がない。
「ガラヤ!」
アズは一番近くの部屋の扉を開ける。
「エルミラ!」
どの扉の向こうにも、人の姿はなかった。アズは立ち尽くしたりはしなかった。
地上階への階段を駆け上がる。
大聖堂全体が静まりかえっていた。聖堂 に入ると、告解室の扉の上に、司祭の在室を告げる明かりがついていた。
アズが告解室の扉を開け放つと、手に数珠 を絡ませて瞑目していた若い司祭は跳び上がらんばかりに驚いた。
アズは早口で捲し立てた。
「セフ神父が身柄を預かっていた人たちはどこだ。婦人と少女二人だ、答えろ」
「私は、私は」狭い告解室の壁に体を押し付けて、司祭は震え上がる。「役人が引き渡せと言うから――」
左手で拳銃を抜き、司祭の胸に突きつけた。
「答えろ」
「アルメラ丘教会だ! 撃たないでくれ!」
聞くやいなや、アズは大聖堂を飛び出した。アルメラ丘教会への行きかたは知っている。鯨を墜としにいくとき通過した。
都市の迷宮を縫う。途中で事故を起こさなかったのは奇跡と言っていいだろう。
アルメラ丘教会に前庭はなく、道路に正面玄関 が面していた。ブレーキを踏み込むと盛大な音を立てた。急停止の衝撃で鳩尾 が圧迫され、胃液が喉の奥まで上がってきた。
胃液を飲み込み、下車。
ブレーキの音が気を引いたのだろう。赤煉瓦造りの教会、その両翼から円塔が突き出ているのだが、右側の塔の最上階の窓から固い音がした。
鉄格子のある窓を、誰かが必死に叩いている。アズの姿が見えるのだ。
何事かと、軽武装の聖教軍兵士が一人、教会の扉を開けた。アズは兵士に肩から体当たりをくらわせながら教会に突入した。
突き飛ばされて倒れた兵士の体を飛び越える。
入ってすぐの聖堂では、会衆席で二人の兵士がチョコレートを食べていた。「何だ?」と振り返る。
瞬間、アズは目を閉じた。左手を上げ、ステンドグラス越しの光を集める。
閃光。
チョコレートバーが落ちる。兵士たちは短く叫んで目を覆った。兵士が振り回した腕がヘルメットを叩き落とす。その音に、アズは目を開けて、側塔へ至る廊下を右に走り出した。
側塔の入り口には鉄の檻があり、錠がかかっていた。アズは拳銃を抜き、錠を撃ち抜いた。直後に背後で警笛が吹き鳴らされた。
檻に体ごとぶつかって、螺旋階段を駆け上がる。兵士の一人が発砲し、その弾丸はかろうじてアズの足首を逸れて階段で跳ねた。煉瓦のかけらが散る。
階段上から人の気配が押し寄せてくる。
「撃つな!」アズは駆け上がりながら警告した。「俺は公教会の天使だ、撃つな!」
螺旋を一巻き上る。ライフルを構えた兵士が、銃口をアズに向けたまま困惑して固まっていた。
「所属はどこだ、天使」
アズは足を止め、答えてやった。
「ガイエンだ」
左手に窓からの光を集める。その光の刃が、兵士たちの後ろにそびえる鉄の扉を打ち砕いた。
「伏せてください!」
アズは叫んだ。兵士たちにではなく、扉の奥にいるであろうスーデルカに。そして撃った。
拳銃に右腕を撃たれ、兵士はライフルの銃口をアズからそらす。
「動くな!」
その警告を無視して、アズは再度目を閉じ閃光を放った。一階から銃声が聞こえた。誰が誰を撃っているのだろう、撃ちあっている――アズは階段の最上段にいた兵士を蹴り落とし、奥の鉄の扉に突入した。
少女たちを庇って床に伏せていたスーデルカが、顔を上げた。
「こちらへ」
手で乱暴に合図する。
「急いで」
廊下では、目をくらまされた兵士が声のするほうへ銃口を向けようとしていた。アズはそれをまたも蹴り倒し、少女たちを急 かしながらスーデルカがついてくるのを確認すると、今しがた上ってきたばかりの螺旋階段を駆け降りた。
アズの真後ろには、鳥飼いのガラヤ。エルミラが続き、奏明の魔女スーデルカが最後尾につく。
一階に下りた。
開け放たれた檻の向こうには、ライフルを手にセフ神父が立っていた。銃床で殴られた兵士が床に伸びている。隣では狼犬が頭を下げ、唸りながら周囲を警戒していた。
「乗れ」
セフはそれだけ言うと、教会を飛び出した。
アズはセフの裏切りを疑っていたが、迷っている余裕はなかった。何より少女たちもスーデルカもセフを疑っている素振りを見せない。アズを追い抜いて教会を出ていく。
教会の外には聖教軍のトラックが停められていた。アズが乗り付けた南ルナリア大聖堂の車、その運転席にはエンリアがいて既にハンドルを握っている。
トラックの荷台から細い女の手が伸びて、ガラヤたちを引き上げた。
お前は前に乗れ、とセフが言った。
アズはトラックの助手席に乗り込むと、拳銃を抜き、弾倉を換えようかと僅かに迷った。まだ一発しか撃っていない。だがその一発分が命取りになるかもしれない。
セフが運転席に乗り込むと、エンリアの車が先行して動き出した。セフもアクセルを踏み込む。アズは結局、弾倉を換えないことにした。スライドは引かれ、すぐに撃てる。セーフティをロック。
「間に合ってよかった」
セフのその言葉で、彼が裏切ってなどいなかったことをアズは信じた。信じることにした。
「セフ神父、トラックなどどこで」
「どうでもいいことだ」それから、実にありがたい忠告をくれた。「それよりも、誰が己の友かを見極めろ」
行くぞ、という言葉を合図にトラックが急加速。
高架をくぐる。高架下に寝そべる家のない人々が、凍りついた目でトラックを見ていた。
「……私が初めて人を撃ち殺したのは、トラックの上でだった」
セフが言った。
「覚えているのですか?」
「どんな悪党でも、母親の財布から金を盗んだ日のことは覚えているものだ」
迷宮の壁に行き当たる。左へ急カーブ。体が傾く。
「私は従軍司祭だった。死にかけた兵士が輸送トラックの上で終油の秘蹟を受けたいと願い出た。その最後の告解が終わる前に、追撃部隊の襲撃を受けた。ゆえに撃った」
本末転倒だ、とセフはニコリともせず自嘲する。
エンリアが、乗用車から腕を突き出して何かを撃った。迷宮の壁の上から撃ち返された。その弾がトラックの幌に当たったのが助手席のアズにはわかった。
セフが左手で無線を取る。
「ミズゥ、攻撃しろ」
了解しました、との返事。
途端にほうぼうの民家から、悪夢に襲われる人の悲鳴、食器の割れる音、物が倒れる音が聞こえてきた。
「ミズゥ、一般人を巻き込んでいるぞ」
『こちらからは外を視認できません。個別の攻撃はできかねます』
「せめて加減しろ」
『いいえ。敵に心眼の使い手がいます。強い』
その返事が合図であったかのように、誰かがアズの頭の中に直接語りかけてきた。
〈アズ、私よ! あなたの敵じゃない!〉
懐かしい声。甘酸っぱい記憶の――
「リール、君か!?」
助手席で背筋を伸ばすアズにセフが言う。
「忠告を忘れるな」
〈そうよ、お願い、トラックを下りて。私たちの関係はこんなのじゃなかったはずでしょう?〉
「君は抵抗教会に寝返ったんじゃなかったのか」
〈誤解よ。私は内通のために送り込まれていたの。お願い、信じて。ガイエンに戻りましょう〉
泣きそうなほど悲痛な声で、リールは呼びかける。ミズゥの攻撃に耐えながら、苦しみながら。
〈私が口添えするわ、今なら引き返せる。だからお願い――〉
右上方、きらりと光るものを目視。
セーフティを解除。
開いたままの窓から両腕を突き出して、アズはその光を撃った。空薬莢が窓枠で跳ねる。撃ってから、その光がアズを狙うライフルのスコープの反射だったことに気付いた。
〈――畜生!〉
ライフルの持ち主はリールだったに違いない。スライドを戻し、アズは冷ややかに告げた。
「リール。俺の兄弟を陥れたら君でも許さない」
〈お前は私の姉さんを殺した!〉
その絶叫が最後だった。
検問の兵士たちは、悪夢の記憶に苦しめられて頭を抱えたり、うずくまったりしていた。トラックはぎりぎり彼らの間を通り抜けた。
アズたちは南ルナリア市を脱出した。喧騒が遠ざかっていく。
「信仰、希望、愛……」
迷宮を抜け出た先の砂の道で、呟くアズにセフが尋ねた。
「何を言い出す」
「夢を見たんです」
最も優れているものが愛ならば、最後まで残るだろうか?
信仰が打ち砕かれ、希望が潰 えても、愛は残るだろうか? それとも、死が残るか?
乗用車とトラックは冬小麦の畑の間の道を、荒涼たる岩山へと向かっていく。
「信仰、希望、愛だ」
アズは夕食の席でトビィとレミを相手に講義している。が、場面が変わり、アズは学生で、隣の席にルーがいて、講義を受ける側に回ったので夢だとわかった。
覚めないでくれ。
「この中で最も優れているのは――」
もう一度トビィとレミに会わせてくれ。夢でもいい。だが場面は教室から変わらず、それさえ薄れていき、アズは車の後部座席で目を覚ました。
愛。
俺は何を愛しているのだろう。
アズは結局、毛布を払い身を起こす。靴を履き、車を出た。バタンとドアの閉まる音が草原に鳴り渡る。
丘の下に南ルナリア市を見下ろすことができた。
それで、何を愛しているのかと、アズは自問する。兄弟?(見捨てるのに?) 家? 過去、もしかしたら未来、それか現在? 空? 世界?
見えるものと見えないもの。
実在の疑わしいもの。
わからない。けれど、確かに何かを愛している。
※
南ルナリアの検問で、アズは身分証の提示を求められた。アズが公教会の『天使』と知ると、聖教軍の横柄な兵士たちは態度を改め、車の窓の向こうから「お客様がお待ちです」と伝えた。
「客?」
アズは眉をひそめた。不機嫌でいらいらしていた。その理由は自分でもわからなかった。
「南ルナリア大聖堂に来るよう伝えてください。そこで会います」
「いえ、それがここでずっと待っておいででして――」
兵士が言い終えるより早く、検問横のカフェの扉が開いて、最も会いたくなかった男が姿を現した。
スーツに丸眼鏡。油で塗り固めた髪。今日も人を困惑させる、きっちり左右対称の笑みを作っている。アズは息を詰めた。検邪聖省の役人、セトラルだ。
役人は車の横で腰を屈め、ニコニコしながら運転席のアズに語りかけた。
「おはようございます、ラティアさん。お帰りをお待ちしておりました」
「何の御用ですか?」
アズはつっけんどんに尋ねるが、鼓動が早まっていくのを止められない。
「ここで話すというわけには行きません。一度車を下りていただくことは可能ですか?」
「不可能と言ったら?」
「ラティアさん、私はあなたのお手間を省かせていただくために申し上げているのです」
役人は笑顔を全く崩さなかった。
「車は南ルナリア大聖堂の事務員にでも回収に来させましょう。すぐそこに私の車がございますので、どうぞお乗り換えください。運転を代わらせていただきます」
「どこへ連れて行くおつもりですか?」
「ひとまずは、アルメラ丘教会へ」
両ルナリア一帯で唯一、異端審問を行う機能を有する教会だ。
「ふぅん」アズは冷たい怒りのきらめく目で役人を見つめながら、ゆっくり頷いた。「そうか」
そして一気にアクセルを踏み込んだ。
歩道を歩く人々が、驚いて硬直した。アズは全く減速せずにカーブを左折し、道を渡ろうとしていた老人にクラクションを鳴らし、猛スピードで直進した。
南ルナリア大聖堂には、通常三十分ほどかかるところを十分で到着した。
大聖堂の前庭は、霜が踏み荒されていた。轍の痕がある。アズは前庭の中央で車を停めると、エンジンを切らず、鍵も抜かず、運転席のドアを閉じることすらせずに、大聖堂右側の
扉を開き、地下の廊下に叫ぶ。
「マデラさん!」
反応がない。
「ガラヤ!」
アズは一番近くの部屋の扉を開ける。
「エルミラ!」
どの扉の向こうにも、人の姿はなかった。アズは立ち尽くしたりはしなかった。
地上階への階段を駆け上がる。
大聖堂全体が静まりかえっていた。
アズが告解室の扉を開け放つと、手に
アズは早口で捲し立てた。
「セフ神父が身柄を預かっていた人たちはどこだ。婦人と少女二人だ、答えろ」
「私は、私は」狭い告解室の壁に体を押し付けて、司祭は震え上がる。「役人が引き渡せと言うから――」
左手で拳銃を抜き、司祭の胸に突きつけた。
「答えろ」
「アルメラ丘教会だ! 撃たないでくれ!」
聞くやいなや、アズは大聖堂を飛び出した。アルメラ丘教会への行きかたは知っている。鯨を墜としにいくとき通過した。
都市の迷宮を縫う。途中で事故を起こさなかったのは奇跡と言っていいだろう。
アルメラ丘教会に前庭はなく、道路に
胃液を飲み込み、下車。
ブレーキの音が気を引いたのだろう。赤煉瓦造りの教会、その両翼から円塔が突き出ているのだが、右側の塔の最上階の窓から固い音がした。
鉄格子のある窓を、誰かが必死に叩いている。アズの姿が見えるのだ。
何事かと、軽武装の聖教軍兵士が一人、教会の扉を開けた。アズは兵士に肩から体当たりをくらわせながら教会に突入した。
突き飛ばされて倒れた兵士の体を飛び越える。
入ってすぐの聖堂では、会衆席で二人の兵士がチョコレートを食べていた。「何だ?」と振り返る。
瞬間、アズは目を閉じた。左手を上げ、ステンドグラス越しの光を集める。
閃光。
チョコレートバーが落ちる。兵士たちは短く叫んで目を覆った。兵士が振り回した腕がヘルメットを叩き落とす。その音に、アズは目を開けて、側塔へ至る廊下を右に走り出した。
側塔の入り口には鉄の檻があり、錠がかかっていた。アズは拳銃を抜き、錠を撃ち抜いた。直後に背後で警笛が吹き鳴らされた。
檻に体ごとぶつかって、螺旋階段を駆け上がる。兵士の一人が発砲し、その弾丸はかろうじてアズの足首を逸れて階段で跳ねた。煉瓦のかけらが散る。
階段上から人の気配が押し寄せてくる。
「撃つな!」アズは駆け上がりながら警告した。「俺は公教会の天使だ、撃つな!」
螺旋を一巻き上る。ライフルを構えた兵士が、銃口をアズに向けたまま困惑して固まっていた。
「所属はどこだ、天使」
アズは足を止め、答えてやった。
「ガイエンだ」
左手に窓からの光を集める。その光の刃が、兵士たちの後ろにそびえる鉄の扉を打ち砕いた。
「伏せてください!」
アズは叫んだ。兵士たちにではなく、扉の奥にいるであろうスーデルカに。そして撃った。
拳銃に右腕を撃たれ、兵士はライフルの銃口をアズからそらす。
「動くな!」
その警告を無視して、アズは再度目を閉じ閃光を放った。一階から銃声が聞こえた。誰が誰を撃っているのだろう、撃ちあっている――アズは階段の最上段にいた兵士を蹴り落とし、奥の鉄の扉に突入した。
少女たちを庇って床に伏せていたスーデルカが、顔を上げた。
「こちらへ」
手で乱暴に合図する。
「急いで」
廊下では、目をくらまされた兵士が声のするほうへ銃口を向けようとしていた。アズはそれをまたも蹴り倒し、少女たちを
アズの真後ろには、鳥飼いのガラヤ。エルミラが続き、奏明の魔女スーデルカが最後尾につく。
一階に下りた。
開け放たれた檻の向こうには、ライフルを手にセフ神父が立っていた。銃床で殴られた兵士が床に伸びている。隣では狼犬が頭を下げ、唸りながら周囲を警戒していた。
「乗れ」
セフはそれだけ言うと、教会を飛び出した。
アズはセフの裏切りを疑っていたが、迷っている余裕はなかった。何より少女たちもスーデルカもセフを疑っている素振りを見せない。アズを追い抜いて教会を出ていく。
教会の外には聖教軍のトラックが停められていた。アズが乗り付けた南ルナリア大聖堂の車、その運転席にはエンリアがいて既にハンドルを握っている。
トラックの荷台から細い女の手が伸びて、ガラヤたちを引き上げた。
お前は前に乗れ、とセフが言った。
アズはトラックの助手席に乗り込むと、拳銃を抜き、弾倉を換えようかと僅かに迷った。まだ一発しか撃っていない。だがその一発分が命取りになるかもしれない。
セフが運転席に乗り込むと、エンリアの車が先行して動き出した。セフもアクセルを踏み込む。アズは結局、弾倉を換えないことにした。スライドは引かれ、すぐに撃てる。セーフティをロック。
「間に合ってよかった」
セフのその言葉で、彼が裏切ってなどいなかったことをアズは信じた。信じることにした。
「セフ神父、トラックなどどこで」
「どうでもいいことだ」それから、実にありがたい忠告をくれた。「それよりも、誰が己の友かを見極めろ」
行くぞ、という言葉を合図にトラックが急加速。
高架をくぐる。高架下に寝そべる家のない人々が、凍りついた目でトラックを見ていた。
「……私が初めて人を撃ち殺したのは、トラックの上でだった」
セフが言った。
「覚えているのですか?」
「どんな悪党でも、母親の財布から金を盗んだ日のことは覚えているものだ」
迷宮の壁に行き当たる。左へ急カーブ。体が傾く。
「私は従軍司祭だった。死にかけた兵士が輸送トラックの上で終油の秘蹟を受けたいと願い出た。その最後の告解が終わる前に、追撃部隊の襲撃を受けた。ゆえに撃った」
本末転倒だ、とセフはニコリともせず自嘲する。
エンリアが、乗用車から腕を突き出して何かを撃った。迷宮の壁の上から撃ち返された。その弾がトラックの幌に当たったのが助手席のアズにはわかった。
セフが左手で無線を取る。
「ミズゥ、攻撃しろ」
了解しました、との返事。
途端にほうぼうの民家から、悪夢に襲われる人の悲鳴、食器の割れる音、物が倒れる音が聞こえてきた。
「ミズゥ、一般人を巻き込んでいるぞ」
『こちらからは外を視認できません。個別の攻撃はできかねます』
「せめて加減しろ」
『いいえ。敵に心眼の使い手がいます。強い』
その返事が合図であったかのように、誰かがアズの頭の中に直接語りかけてきた。
〈アズ、私よ! あなたの敵じゃない!〉
懐かしい声。甘酸っぱい記憶の――
「リール、君か!?」
助手席で背筋を伸ばすアズにセフが言う。
「忠告を忘れるな」
〈そうよ、お願い、トラックを下りて。私たちの関係はこんなのじゃなかったはずでしょう?〉
「君は抵抗教会に寝返ったんじゃなかったのか」
〈誤解よ。私は内通のために送り込まれていたの。お願い、信じて。ガイエンに戻りましょう〉
泣きそうなほど悲痛な声で、リールは呼びかける。ミズゥの攻撃に耐えながら、苦しみながら。
〈私が口添えするわ、今なら引き返せる。だからお願い――〉
右上方、きらりと光るものを目視。
セーフティを解除。
開いたままの窓から両腕を突き出して、アズはその光を撃った。空薬莢が窓枠で跳ねる。撃ってから、その光がアズを狙うライフルのスコープの反射だったことに気付いた。
〈――畜生!〉
ライフルの持ち主はリールだったに違いない。スライドを戻し、アズは冷ややかに告げた。
「リール。俺の兄弟を陥れたら君でも許さない」
〈お前は私の姉さんを殺した!〉
その絶叫が最後だった。
検問の兵士たちは、悪夢の記憶に苦しめられて頭を抱えたり、うずくまったりしていた。トラックはぎりぎり彼らの間を通り抜けた。
アズたちは南ルナリア市を脱出した。喧騒が遠ざかっていく。
「信仰、希望、愛……」
迷宮を抜け出た先の砂の道で、呟くアズにセフが尋ねた。
「何を言い出す」
「夢を見たんです」
最も優れているものが愛ならば、最後まで残るだろうか?
信仰が打ち砕かれ、希望が
乗用車とトラックは冬小麦の畑の間の道を、荒涼たる岩山へと向かっていく。