第55話

文字数 2,165文字


 洛邑の状況は、刻々と緊迫の一途を辿っている。
 大司空( )(造作を司る冬官の長)は、自らの配下である工部から数多(あまた)の武具が太師・太傅、双方の閥の私兵に流されるのに、見て見ぬふりを通した。結果、洛中の卿大夫の邸には、武装した集団が其処(そこ)此処(ここ)に潜んでいる、という事態となっている。
 物々しいこういった動きが、都人の目につかぬはずがない。「戦が始まるそうな」という噂は枯草に火が放たれた勢いで広がり、戦乱を避けようと洛中を出る庶民が大路小路に溢れているが、洛邑の主であるはずの逢王は、これら臣下の勝手な振る舞いをさせるに任せて、宮城の奥から〝高みの見物〟を決め込むばかりに見える。

 そのような中、鷲申君の都督畿内三監四関諸兵事への就任と兵を召集する旨の官符が発行されるや、早くも翌々日には畿内でも近隣の邑――例えば鷲申君の采邑・鷲申など――から、続々と兵が上ってきていた。
 今日も正午の鼓が鳴る少し前、洛中路門の門道の〝坊〟(南北方向の大路)を、五百余りの兵の一団が、駈歩(かけあし)で兵車に率いらてれいった。その旗は〝畿央をあらわす〟黄色、すなわち王師の色で、此度(こたび)の兵事で鷲申君の配下が掲げるとした色の旗だった。

 その一団を眉根を寄せて見送った(ヂャン)(フゥイ)は、知らず深刻そうな面持ちとなっていたことに気付き、両の手で顔を()(ほぐ)すようにごしごしと(こす)った。
 面を上げふたたび大路に視線を戻したとき、おそらく伝令だろう黄色の頸巻(くびまき)(=スカーフ)をした騎馬の兵が、街中であることを(かえり)みずに疾走してくるのを視野に収めた。同時に、同じ視界の隅には、大路を渡ろうとした途中で、迫りくる騎馬の迫力に足を竦ませる痩せ細った童の姿もあった。
 考えるよりも体が先に動いていた。
 張暉は、童に向かって自らの腕を伸ばすと、その二の腕を掴んで思いっきり引き寄せた。小柄なふたり共々、もんどりうつように路上に転がると、間一髪、それまで童が足を竦ませていた場所を、砂塵を巻き上げて、人馬一体となった騎馬が駆け抜けていった。
 危うく騎馬に()かれそうになった童は、張暉に強張った顔を向けた。その童の姿に、張暉は、ふと、晩年を寝たきりで過ごした祖父を思い出すこととなった――。

 暉の祖父は()(ひと)だった。佳君に与力する張という小さな邑。そこの太夫に仕える、士の三男として生まれた祖父は、射礼(じゃらい)に列する貢士(こうし)に選ばれて洛邑に上り、そのまま夏官( )(六官の一。軍事を掌る)の虎賁(こほん)(公において王を護衛する武官)となった。いくつかの出師には、(そつ)(兵百人)の長として出征し、いくつもの軍功を上げている。
 その彼が床についたのは、張暉が乳飲み子だった頃。路門の門道を奔走する暴れ馬を止めようとして、両脛の骨を踏み砕かれたのである。
 両足の自由を奪われては、いかなる武官も存分に働くことは出来ない。武人としての未来は断たれることとなった。しかし彼は誰も恨まず、夏官に致仕を願い出ると愛用の兜と甲冑を売り、陋巷(ろうこう)に暮らす一老人として、洛邑市中で余生を過ごした。
 (しょう)の上で力の入らぬ足を撫でさすりながら、馬の主はもちろん、息子夫婦にも一言の愚痴もこぼさなかった。
 暉の饒舌(じょうぜつ)は、物心ついたときから毎日、その日の出来事を祖父の枕元で喋りつづけたからだった。若い頃の祖父は、悪鬼ですら道を譲ると云われたほどの剛の者だったという。しかし暉の眼に映る祖父は、孫に甘い、ただの隠居でしかなかった。
 その祖父が唯一、張暉に声を荒らげたのは、暉が祖父の負傷の理由を知り、悪態を()いたときだ。
爺爺(イェイェ)(おじいさま)を怪我させた馬なんて、殺してしまえばよかったのに」
 これを聞くなり、祖父はつねに傍らに置いていた杖を振り上げ、張暉の手を打った。
 そして半身を起こして孫の襟髪をつかみ、大声を上げた。
「愚か者が! 馬は野を駆け、ひとを乗せるが務めじゃ。それが人を傷つけたゆえ罰せよとは、道理に背く言葉じゃぞ」
「だ、だって、その馬は爺爺(イェイェ)のあしを奪いました。そのような馬が(ゆる)されていいのですか」
 幼い張暉が食い下がると、祖父は厳しい表情(かお)をして応えた。
「わしが怪我を負うたのは、自らの過失ゆえじゃ。いや、馬を止めようと思い、その結果、傷を負うたのじゃから、これは過ちでなくただの力量不足よ。……分かるな」
 最後はそう言って笑った祖父は、武官であった頃は、平時においてはなにより人命を尊ぶ男だったらしい。手下(てか)の者からもずいぶん慕われていたのだろう。かつての配下や、戦死した下官の妻子が訪ねてくることも珍しくなかった。
 その彼にとって、街中の暴れ馬を止め、市井の人を救うことは、自らが為すべき「義」だったに違いない。

 ――まだ頑是(がんぜ)ない童の、強張ったものから泣きそうな笑みに変わった表情(かお)が、祖父の笑顔に重なった。
 張暉はひとつ頷くと、童を立たせてやりながら自分も立ち上がる。童はぎこちなく一礼して、そのまま逃げるように胡同(こどう)(=路地)へと消えた。
 そんな童の背を見送って、張暉は、いま洛邑の市井を巻き込んで一触即発の事態を招こうとしている太師と太傅の、それぞれの「義」を想う。
 だが十四歳の張暉がいくら考えても、()に落ちる「義」というものは浮かんでこない。
(なら、ぼくは僕の「義」を探そう……)
 祖父の笑顔を胸に浮かべながら、張暉は唇を引き結び、袍の(すそ)の埃をひと払いした。
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