第42話(終章)
文字数 1,856文字
夕暮れ刻 、南宮 唐 の邸の中庭に甲高く澄んだ弦音 が響くと、一拍を置いて、的を捉えた鏃 が堅い木を穿 つ乾いた音が鳴った。
次の矢を番 える洪 大慶 は、洛邑から戻った蕭 尊寶 の冷静に努める声を、その背に聞いた。
「おまえの所為 じゃない。……射会の場に王孫 光銘 が居合わせたのが不運だったのだ」
過日の射会で起きた奇禍 …――立青 が光銘に些細な理由で斬り付けられ、両目を失明したこと。そしてその後に立青が、生きることを自ら止めたこと。これらは大慶に責任のあることではないと、そう尊寶は言ったのだった。
大慶はそれを黙して聞き流し、つぎの矢を的へと投じた。乾いた音が応えた。
さらに次の矢を番える合い間に、大慶は尊寶に言った。
「おまえは居なかったからな。……南宮 唐 も居なかった」
「…………」 尊寶は黙すことで先を促 した。
「俺は居たのだ、蕭 帯 …――」
大慶は弓をひき絞ると、あ の と き のことを思い起こすように目を細めた。
「――章弦君も、高 老師 も居た。それで俺たちは立青 を救えなかった。……否 、救うことをし な か っ た !」
低く濁った弦音 とともに矢は大きく外れた。大慶は弓を放ると尊寶に向き直った。
「俺の隣で徐 云 は王孫 に赦しを請うたのだ…――〝明君は怒りを懸 けず……〟と。
背に何 捷 の怒りを感じたよ…――〝なぜこのようなことで、こんな目に遭わねばならぬ〟というな。……当然だろう?」
大慶には痛恨だった。あの折り、自分こそが速やかに膝を進めて赦しを請えば、あのようなことにはならなかったのでは、との思いがある。
だが、あの日の洪大慶という者は、主人 たる章弦君の意向を鑑 み、あの場で進み出ることを躊躇ったのだ。
――結局、我らのいう〝仁〟とは、そんなものなのだろうか。口先では仁愛を説きながら貴賤親疎を差別し、上は下を踏みつけ、危急には我が身の保身に走る……。
そんな大慶の視線を尊寶は正面から受けた。が、掛ける言葉を見つけることができず、怒ることさえできなくなった義弟の顔を、ただ見返すこととなる。
尊寶はあ の 射会の日は南宮唐と共に洛邑に居り、彼にとっても弟子といえる少年たちを被 った奇禍に居合わすことがなかった。
もしそ の 場 に居合わせたとしても、おそらくは大慶と同じようにしか振舞えなかったろう。だから大慶の憤りは自分のそ れ でもある。
そんな息苦しさを増す中庭に、尊寶は人の気配を感じた。
視線を遣れば、火車 が童女の手を引いて中庭へと入ってきたところだった。大慶が尊寶の目線の動きに気づき、背後を振り見遣る。童女はふたりの姿を見ると立ちすくんだ。
そのまま体を強張らせた童女は火車の手を強く握り、おどろき戸惑う火車の身体を盾に、隠れるようにその陰に回る。しばらく様子を見た火車が歩みを促すと、童女は怖ず怖ずと、火車の体に隠れながら中庭を進んだ。火車がふたりに軽く頭を下げて恐縮してみせる。
そんな童女と火車を見送りつつ、尊寶は大慶に訊いた。
「…――立青 の妹か?」
大慶は黙って頷いた。
立青の死の素因となった妹は、兄を襲った奇禍に泣くばかりであったが、ようやく泣き止んだときには、その声を失ってしまっていた。
それを伝え聞いた南宮唐が、この童女を憐れみ、引取ることにしたのだった。口のきけなくなった童女は、名を雨青 といった。
雨青 は、大慶らの居る中庭から逃げるように正房へと消えた。
大慶は、ある決意をもって口を開いた。
「蕭 帯 よ。俺は学ぶ理由を改めた」
「…………」
やはり尊寶は黙して先を促 す。大慶はゆっくりと続けた。
「万巻の書を学び、議論をするだけでは、あの子らは救えない。肝心なのは、何をどう体現するかだろう」
政 に必要なのは仁愛だと儒は教える。儒書をいくら学んだところで、それを実行しなければ、世に『五常』 (仁・義・礼・智・信)は広まらず、政道も正されることはないと考えたのだろう。あの日、『五倫』を建前に、権勢に阿 った自分を赦せないのか。
尊寶は万感の想いで友を見遣ると、その何かに到達した表情に想う言葉を贈った。
「……義之与比、か」
義にこれ与 に比 しむ――すなわち、君子はただ義に従うのみ。
洪 大慶 は、自分の〝義〟を定めたのだと、そう感じたままを言葉にしたのだった。
「境丘を出るのだな」
そう確かめた尊寶に、大慶は頷いて言った。
「俺は、俺の兵法を実践し、武人として威 を体現する。……いつの日か、その武威を与力するに足る人物を、尊寶 、おまえが見つけてくれ」
洪大慶にそう名指しされた蕭尊寶は、秋の薄暮のなか、黙って頷いて返したのだった。
次の矢を
「おまえの
過日の射会で起きた
大慶はそれを黙して聞き流し、つぎの矢を的へと投じた。乾いた音が応えた。
さらに次の矢を番える合い間に、大慶は尊寶に言った。
「おまえは居なかったからな。……
「…………」 尊寶は黙すことで先を
「俺は居たのだ、
大慶は弓をひき絞ると、
「――章弦君も、
低く濁った
「俺の隣で
背に
大慶には痛恨だった。あの折り、自分こそが速やかに膝を進めて赦しを請えば、あのようなことにはならなかったのでは、との思いがある。
だが、あの日の洪大慶という者は、
――結局、我らのいう〝仁〟とは、そんなものなのだろうか。口先では仁愛を説きながら貴賤親疎を差別し、上は下を踏みつけ、危急には我が身の保身に走る……。
そんな大慶の視線を尊寶は正面から受けた。が、掛ける言葉を見つけることができず、怒ることさえできなくなった義弟の顔を、ただ見返すこととなる。
尊寶は
もし
そんな息苦しさを増す中庭に、尊寶は人の気配を感じた。
視線を遣れば、
そのまま体を強張らせた童女は火車の手を強く握り、おどろき戸惑う火車の身体を盾に、隠れるようにその陰に回る。しばらく様子を見た火車が歩みを促すと、童女は怖ず怖ずと、火車の体に隠れながら中庭を進んだ。火車がふたりに軽く頭を下げて恐縮してみせる。
そんな童女と火車を見送りつつ、尊寶は大慶に訊いた。
「…――
大慶は黙って頷いた。
立青の死の素因となった妹は、兄を襲った奇禍に泣くばかりであったが、ようやく泣き止んだときには、その声を失ってしまっていた。
それを伝え聞いた南宮唐が、この童女を憐れみ、引取ることにしたのだった。口のきけなくなった童女は、名を
大慶は、ある決意をもって口を開いた。
「
「…………」
やはり尊寶は黙して先を
「万巻の書を学び、議論をするだけでは、あの子らは救えない。肝心なのは、何をどう体現するかだろう」
尊寶は万感の想いで友を見遣ると、その何かに到達した表情に想う言葉を贈った。
「……義之与比、か」
義にこれ
「境丘を出るのだな」
そう確かめた尊寶に、大慶は頷いて言った。
「俺は、俺の兵法を実践し、武人として
洪大慶にそう名指しされた蕭尊寶は、秋の薄暮のなか、黙って頷いて返したのだった。