第56話(終章)

文字数 1,897文字

 母の面影は、薄らいで消えてしまうと、もう現れてはこなかった。
 目を開けた尊寶(スンバォ)は、そこに辛抱強く言を()っている(ツァィ)才俊(ツァィヂィン)の顔を見た。
「――少なくとも〝人の創りだしたもの〟ではありますまい」
 慎重な物言いになったが、言葉は陳腐なものとなったかも知れない。あの日の母の言葉にうまく言葉を見つけられず、〝()()は、好きですか?〟と訊くしかなかった自分は、実はいまも大して成長していないと思える。
「別言します」 尊寶は続けた。「為政の者が如何に五常五倫を説こうと、世に(いさか)いが絶えた(ためし)はありません。他方、〝仁〟や〝義〟のようなもので生き方を説明されずとも、生きとし生ける()()ことごとくは、ごく自然のうちに生き方を定めます。……原伯なればそれを〝威〟とも〝力〟とも語りましょう」
 蔡才俊の目が〝ようやく訊きたいことに辿り着いた〟といった表情となって、静かに先を促す。尊寶は続けた。
「私ならば〝孝慈〟(※)としたい」
(※「孝」は親への孝行、「慈」は子への慈愛。ここでは「真心(まごころ)」の意。)

 蔡才俊は満足したように肯いた。それから、この言を共に聞いた(リャオ)振瑞(ヂェンルイ)(ファン)(クゥァ)(ホー)(ジェ))のそれぞれの表情(かお)を窺うと、意を定めたように再び尊寶を向いた。
「今日、貴方を呼び出したのはほかでもない。実は天官府の大史に貴方を迎えたい。この(ツァィ)才俊(ツァィヂィン)の下で働いてはもらえまいか」
 尊寶は、いよいよ困惑の表情となって蔡才俊を見返す。
「私を、ですか――」
 大史とは、宰輔の下、天官の太宰・小宰の命を受けて公文書の記録・作成を(つかさど)り、内容を吟味して上役の判断を仰いで文案を審査することを職掌とする中位の官である。天官府の中枢にあって実務を担うといってもよい重要な役といえる。
 境丘の学匠であり章弦君( )(王淑公の弟)の食客である自分は、太師の側の人間であることが自明である。太傅・昌公緩の懐刀の蔡才俊が、それを押してまで、このような申し出を口にするとは…――。
 蔡才俊は、笑みを浮かべて返した。
「何かの奸計とお疑いか。だがその懸念には及ばない。失礼だが貴方は一介の処士( )(在野の士)だ。〝境丘と争う〟にしても、貴方のような末席の者を、天官の宰輔は利用しない」
 言われてしまった尊寶は憮然としてみせたが、蔡才俊は笑みを絶やさずに言継いだ。
「…――だが、貴方の才は本物だ。徳治という思想に〝全幅の信〟が()()()()()()のもわかった」 そして、表情を改めて言った。「この(ツァィ)才俊(ツァィヂィン)は、貴方のその才を、天下四海の万民のために使いたい」
 今度は〝褒め殺し〟かと微苦笑をかみ殺す尊寶に、蔡才俊の方は真面目である。
「先ほどの〝大道〟の話…――正直私には、それが何か解らぬし興味もないが――、それが(もたら)すもの、齎してもらわねば困るものについては、〝民の利〟だと思っている……」
 尊寶にも興味が湧いた。
「〝民の利〟……」
 それを感じた蔡才俊が、自分の想いを言葉に乗せる。
「そのために〝法〟が必要だから法治を唱えている」
「それは方便ですか」
 だが軽く揶揄するような尊寶に、なんと蔡才俊は肯いた。
「……だが私が〝法〟で縛るのは民ではないよ。私が〝法〟を(もっ)て縛りたいのは、悪戯に仁義を振りかざす者どもだ。彼らの傲慢は目に余る」
 そしてその言は、尊寶の心の深い部分を捕らえた。


 その日の夜。尊寶は、洛邑の市内に見つけた邸の院子( )(中庭)で、南宮(ナンゴン)(タン)に今日の出来事を包み隠さず話した。
 一通りを聞き終えた南宮唐は、静かに訊いた。
「…――では、この誘い(はなし)、受けるのか」
 一拍を置いて、尊寶は薄く笑って応じた。
「どうにもこの役は、私にしか出来ぬことのようです」
 〝この役〟とは、虎口に入ってその内情を得る、ということで、むろん、虎口は天官府をいう。――つまりは諜者となる、というわけだが、この場合、見ようによっては、太師方、太傅方双方からの二重の間諜といえた……。
 南宮唐には、そんな不面目なことを、この才気ある若い同僚にはさせたくない、という強い想いがある。だから言った。
「やめたがよい。おぬしほどの鋭才……大事を成すに、名は惜しむべきだ」
 その南宮唐の顔に浮かんだ強い憂いの表情に、尊寶は感謝しつつも顔を横に振った。
 南宮唐の目が問うと、尊寶は静かに応えた。
「天官宰輔が、私の才を天下四海の万民のために使いたい、と云うのです」
 それで、どうやら(シャオ)尊寶(スンバォ)の意が固いことを悟った南宮唐は、積極的に首肯はしないが、理解はしよう、と肯いたのだった。

 そんな南宮唐に感謝しつつも、実は尊寶はこうも考えている――。
 存外に、太師派、太傅派などと分かれて諍うことなく、万民の利を生むという僥倖(ぎょこう)を得ることができるのではないか、と。
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