第68話

文字数 1,716文字


 十月五日、(イャォ)(ファ)の手勢は亀城の北門を出ると、都の東を流れる洛水の西岸を北上する。
 もはや今の姚華には、自分が国を乱している自覚など、微塵もない。
 煌びやかな姚華の兵車を先頭に整然と行進するその軍旅を、昌の先方を先導して都に入った王淑兵は追撃しなかった。王淑の兵はそのまま宮城に入ると、頃王の御前に徒列し、玉体(ぎょくたい)(王の身体)の護りに就いた。

 いまや賊軍と成り果てている姚華の手勢を追撃したのは、ついに洛邑に到達した昌の本軍であった。三つの師から成る昌本軍は、十月十三日に洛邑の南面に姿を現すや一師を都に残し、二師五千の兵を、先に洛邑に入っていた騎兵の一旅( )(五百)に嚮導(きょうどう)(=先に立って案内すること)させ、さっそく洛水を北上して姚華勢を追った。
 一方、姚華の手勢は亀城を出た翌々日の十日には自らの采邑・鷲申に入ったが、続々と昌公方の兵が洛邑に集まってくるという情勢に、鷲申の小さな城壁を捨て、洛水を渡って白河南岸の堅城・沮へと移っている。沮城の主・(リァン)国宇(グォユー)は、かつて境丘に学んだ右文左武(ゆうぶんさぶ)の者で、若き日には戦場の姚華の車右(しゃゆう)(兵車の右側に戈を携えて陪乗し、白兵戦を担当する者)を務めた男である。
 その梁国宇の守る北の堅城に入った姚華とその手勢であったが、そのわずか四日後には昌の繰り出した二師( )(五千)の軍を女牆(じょしょう)(ひめがき。城壁の上に連なる凸形の防壁)の間から見下ろすこととなる。
 この時点で、姚華の下には()()四旅二千ほどの兵があり、北方伯がその軍を南下させれば十分に対抗は可能なはずだった。また、近隣の諸邑から、姚華を慕い駆けつける官人・武官も多く、まだまだその意気は軒昂(けんこう)だった。

 最終的に姚華勢の戦意を打ち砕いたのは、その援兵として(たの)んだ北方伯の「黒」色の軍旗であった。
 昌軍の展開に遅れること二日。白河の流れの上にようやく現れた黒旗の軍船の群れを認めたとき、沮城の守兵は沸き立った。が、黒旗の軍船は城に近付くことなく(じく)(船首)を城壁に向けて留まった。そして、そのうちの一隻だけが城壁の下に進み出ると、城壁の上に布に包まれた西瓜(すいか)大の塊を投げ込んだのだった。
 塊は、先に原の都・紺壁への密使に立った小臣・艾庭の首級であった。
 腐敗を防ぐために塗り込められた塩のこびり付く艾庭の表情は、恐怖と驚愕とで歪んでいたかもしれない。
 それを見た姚華は、髪をかきむしらんばかりに怒り狂った。
「おのれ……おのれぇっ。原伯の左右には道理を解する者が居らぬのか。かような事態(こと)のために學文(シウウェン)を紺壁に留め置いたというにっ」
 猛り狂う姚華には、すでに世の流れが見えていない。たしかに原伯・(グゥー)(ヂォン)は姚華の誘いに心揺れはしたのだが、それを無謀と諭したのは、他ならぬ明璇の父、王淑公孫・(ジェン)學文(シウウェン)その人であったのだ。

 原伯に召され諮問の場に立った學文は、逢の天子より采邑を封じられながら、その天子に弓引いた姚華の不義不忠は明らかで、条理に(もと)るその振る舞いに天意が得られようはずのないことを説き、さらには畿内に北辺の兵を招き入れねばならぬ事態(こと)に至ったのであれば、それは王淑を始めとする畿内諸侯の与力をまとめきれなかったとみてよく、もはや勝味はない、という情勢を論じた。
 原伯・(グゥー)(ヂォン)は、その學文の言説を(もっ)て原の廷臣らを納得させ、逢の方伯として軍を南下させる出師を決めた。
 もはや姚華は、最も近しい姚の姓の血筋の者からも、信を得られなくなっていた。

 二日後。白河の上流の渡河点を渡った四師( )(一万)の軍勢が姿を現すと、黒旗の軍勢はそのまま沮城の東壁を取り囲み、南面の平野に展開した昌軍と(くつわ)(手綱をつけるため馬の口にかませる金具)を並べたのだった。
 この時点で沮城に籠る姚華の兵は、多く見積ったとて二千余り。対する昌原連合軍は六師一万五千を数えており、名実ともに孤立無援となっていた。
 そうしているうちにも、自軍からは砂が(こぼ)れ落ちる勢いで兵が逃亡してゆく。もはや姚華には、それを押しとどめようという気概すら失われていた。
「……太師、夕餉(ゆうげ)をお持ちしました」
 おずおずとした声に顔を上げると、あきらかに丈の合っていない大きめの皮甲(ひこう)をつけた若者が、鶏の(あつもの)の装われた木の椀と勺子(シャオズ)を手にひざまづいていた。
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