第32話
文字数 1,711文字
境丘の高邸に戻るや、徐云は、それとなく麗雯とのことを何捷に質してみた。
たとえ何代か前の世に〝主として従った家系〟の末裔であるにせよ、元妓女の娘に頭を下げるなど、常の何捷からは想いもよらないことだったからだ。彼をそうまでさせる関係なり背景には、やはり興味をそそられた。
もっとも、真正面から詮索するようなことはさすがに不躾というもの。夕餉のあとに部屋に戻ってから、頃合いを計って訊いた。
すると何捷は、それまで徐云が理解していた彼の為人からは意外と感じられるほどあっさりと、麗雯の家のことと自身の家との関わりを、つらつら語って聞かせてくれたのだった――。
睦谷にて天命を失った嬴姓の『恵』が斃れ、替わって姚姓の『逢』が王権を樹立したとき、白河の北、『涼』の地の諸邑を束ねる北涼伯・崇威は、いまだ勢力を保っていた。
崇威は北涼の地を三分割し、自らの三人の子に継がせる。子らはそれぞれ『崇儀君』『崇召君』『崇嘉君』と号した。〝侯〟でないのは、むろん逢の冊封を受けられる立場にないからである。
涼の三君はそれぞれに土地を守り代を重ね、そんな状況が北の地では八十年あまり続くが、このあたりの事実は、逢の史書に現れることはない。北涼の諸邑は北狄(北方遊牧民族)に侵食され、崇威の子らも異族のもとに落ち延びたことになっている。
その一方で、逢という国が、このように、あたかも北の地に独立独歩する〝別の宮廷〟の並立するが如きを容認するはずがなかった。
白河の北方にいくつかの邑を連ねて北狄ともども三涼(涼の三君)を圧迫し、激しく抗争を繰り返す。そして遂に媛姓戈氏の邑・『原』が置かれると、三涼のうちで最も南に広がっていた崇召君の采地が、まずその武威に屈した。
それを皮切りに残る〝二涼〟も、その采地を次々と原に刈り取られてゆくのである。四十年も過ぎた頃には、かつての『恵』の八百諸侯を統括する四大伯の一、〝北涼伯〟の威勢は見る影もなくなっていたが、原による追及は苛烈を極め、崇威に所縁のある邑は、その後の三十年余りをかけて終に覆滅されることとなる。
崇威の血筋の者の多くは采邑を失い、采邑を失えば大夫の地位も失った。
そうして戈氏の手を逃れた彼らは、嬴姓を伏せ、氏を変えることを余儀なくされる。素性が知れれば奴隷の身に落とされる、という事態は常にあり得たからだ。
麗雯が語った崔氏とは、三涼と呼ばれた崇威の子らの采地のうちで最後に滅ぶこととなった『崇嘉君』の崇氏(崇嘉氏)の流れを汲み、世が世ならば、北涼伯宗家に近しい血脈を伝える名家である。
何捷の家は崔氏譜代の家柄ではなかったが、捷の祖父・前の代に、崔氏五代(六世)・宇に見出されこれに仕えた。だがほどなく崔氏は士の身分さえを失い、一族ことごとくが奴婢の身分に落とされるという憂き目にあう。些細なことを戈氏に咎められ罪を着せられたのだった。
そのときである。――当時まだ家督を継いだばかりの崔範が、事態の行末を察し、父から引き継いだ用人家人のすべてを解雇したのは。
そうすることで家人らに累の及ぶのを避けたわけだが、それをできた崔範という人物は真の大夫であったろう。この崔範の計らいがあればこそ、何捷は賤民とならずに、ここ境丘に学ぶ道を得たといえる。
そんなことを淡々と語った何捷の表情の奥に、徐云は、彼の気位の高さと権門――特に五富族――への反骨、そして時折り見せる賤民への同情の理由を垣間見た気がした。
さて、一方――…
鄭邸に戻った麗雯の方は、もうその後は何をするでもなく一日を終えて、与えられた部屋でひとり追憶に耽っていた。
(――何捷……と言ったっけ)
璧の首飾りを見、崔範の名を聞くや、まっすぐに拱手の礼を向けてきた若い学徒の名と顔とを思い出してみる。
冠礼まえの顔は痩せていて、その目の奥には他人を遠ざける昏さがあった。……それは、小麗だった自分の目に似ている。年齢に似ず、他人に言えぬ苦労を重ねてきたのだろう。
そんな少年が真摯な光をその瞳に宿して自分を向いたことに、心のなかで、ふたたび溜息を吐いた。
嘘が真になる瞬間に居合わす、というのは、こういうものか…――。
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