第9話
文字数 1,583文字
明璇は、はじめ、卓の上の粗末な器に装われた(おそらく海鮮の具の)羹をまえに、食指が動かなかった。
王淑公家に連なる家柄に生まれた明璇は、このような俗間の(=庶民の)店というものを知らない。簡氏の邸では、点心(軽食)といえども美しい装飾の器が並ぶのが普通なのだった。
(小云はこの二か月、このような食事しか摂れてないのかしら……)
明璇は、わずか二カ月ほど前まで同じ邸で同じものを食していた小云――徐云の食生活を案じてしまう。
だがしかし、そのようなことは必要のない煩慮だった。
当の〝小云〟――徐云は、湯気の立つ羹を勺子(=スプーン)で掬うと、ふうふうと冷ますのもそこそこに、次から次に口へと運んでいる。同じの卓の何捷も洪大慶も、名のある学者と思しき南宮唐すら、ひたすら勺子を口もとに運んでいる。
それで明璇も勺子を手に取ると、透明感ととろみのある羹をひと口掬って、恐る恐る、口もとへと運んだ。
「……美味しい」
自然と口をついて出た。
明璇はもうひと口啜ると、今度は傍らの徐云の方を向いて言った。
「美味しい!」
徐云はというと、あからさまに言い募られて、いったんは勺子の手を止めて明璇に肯いて返したのだったが、またすぐに羹の器に意識を戻し勺子を落としてしまうのである。明璇もまた、自分の器に向き直って三口目を掬う。
その後は五人とも、黙々と熱い羹を勺子で掬うこととなった。何捷などはお代わりを二回している。
皆の腹が十分に満たされると、頃合いを見計らった南宮唐が先ず何捷に話の水を向けたので、何捷はあらためて名を名乗って自らの来歴を語り始めた。
彼が語るところによれば、年齢は十五歳、生邑(生まれた邑)は沮河(白河の上流域に注ぐ支流)の北岸の沃邑「禀沮」ということであった。
「では〝原人〟か」 と大慶が訊くと、
「違う……。強いて言えば、俺は〝亡涼の人〟です」 と何捷はきっぱりと応えた。
沮河は逢朝建国以前の恵代(「恵」の時代)には四大伯の一、北涼伯威の封地であった。つまり、逢の冊封を受けた媛姓戈氏の「原」に、己が家門は連ならない、という主張である。
とすれば、彼の家の祖は北涼伯威の所縁ということであろうか。所持する剣の拵えとそれを扱う技前からも、間違いなく士分以上……ひょっとすれば大夫の出自(もしくはそれに連なる生まれ)であることは容易に想像できる。
何れにせよ十五歳の彼は家については語らず、ただ自らの力量のみで立身するため、ここ桃原にやってきたのだと語った。
十六歳の徐云は、そのように語るこの何捷という少年に何か〝共感めいたもの〟を覚えていた。
自分と同じような望みを抱いた同じような年齢の少年と、ここ境丘で出会うとは。
運命とはいわないが、何かの導きのようなものがあるのではないか……そんなことを思ったときに、傍らの明璇が口を開いた。
「……何子。先ほどは差し迫った小除をお助けくださり、ありがとうございました」
いつも彼女が自分を呼ぶ際の〝小云〟(諱)ではなく〝小除〟(姓もしくは氏族名)としたのは、このような場で諱を使うのを憚ったからだろうが、しかし自分よりも年少の何捷に〝~さま〟を意味する〝子〟をつけて呼ぶとは……。言われた方だってさぞ居心地が悪いだろうに、と徐云は思ったが、当の何捷は謙遜の態となることもなく、黙って明璇に肯いて返していた。どうやら自身を遜ってみせるということはしない性格らしい。
その自分には備わっていない感性に、むしろ徐云は感心させられたのだった。
(似た望みを持つけど、どうやら僕とはぜんぜん似つかない性質らしい……)
そんな若干の羨望を含んだ思いを胸に、改めて徐云は何捷に謝意を示すと、洪大慶に促されるまでもなく自分のことを語り始めた。
ぐずぐずしていると、隣から明璇が、頼まれもしないうちから語りだしそうだったからだ。
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