第73話
文字数 1,642文字
小路に踏み入った徐云は、そこに人の影のないことを確かめると、わずかに落胆の色をその顔に浮かべた。
彼がその場に見つけられるのではと期待した人影は、桃原の南宮唐の本邸に居るはずの火車だった。大路の反対側の端に、確かにその顔を見たと思ったのだったが、やはり見間違いだったか。
いったんは諦めをつけかけた徐云であったが、それでも一応と、洛邑での南宮唐の邸へと足を向けることにする。
その南宮唐の邸は、現在は空き家となっていた。
姚華が手勢を引き連れ亀城を出たのと前後して、洛中の姚華方の者らの邸には、昌公方の兵が勝手に入り込むようなこととなった。不測の事態となるより先に、天官史生の何捷が姿を現わし、邸を出ることを求めたのである。邸を出ることを承知した南宮唐は、張暉とともに洛邑の鄭承の店に身を寄せた。いまは徐云も、鄭承の店に起居している。
乱が収まって初めて訪れた邸は、いまだ買い手も借り手も付かず、空き家のままだった。
内院(中庭)にまで立ち入り、人の気配のない建屋を一通り見遣った徐云は、それでようやく諦めをつけて大門(表門)を出た。
鄭氏の枝店のある坊(街区)の方へと向いたとき、
「あの――」 と、背に童の声を聞いた。
何れ近所の胡同(路地)に住まう童であろうが、その顔に見覚えはなかった。
(どうかした?) と小首を傾げた徐云に、童は握っていた牘を差し出して言った。
「――これをあんたに渡せ、って……」
受け取った牘には、南宮邸と同じ坊にある別の邸の〝割り付け〟(街区の区割り)と思しき〝並び〟(数列)が記されていた。
はっ、として童を向いた徐云が、
「これは?」
と質すと、もう背を向けていた童は、だっと駆け出し、
「――…知らなーい……」
と答えて、猿のような素軽さで、胡同へと消えてしまった。
ああ……、と見送った徐云は、しかたなく牘に記された〝並び〟の〝割り付け〟に急いだ。
そこは南宮唐の邸の北側に位置していて、同じような質素な邸には、やはり人の気配は感じられなかった。
躊躇いはあったが、意を決して徐云は門を潜った。
誰からも咎められずに内院まで歩みを進めたが、冬枯れを感じさせる内院に、風の音以外の音はなかった。
どういうことなのだろう……。
視線を巡らした徐云は、東廂房(東側の建屋)の中庭に開いた扉の前に佇み、ずっとこちらを見ていた人影に気付いた。
「久しぶりだな。徐云」
「蕭子――」
一瞬、言葉を失った徐云だったが、目を瞬かせ、眼前の蕭尊寶の長身が夢でも幻でもないことがわかる否や、次々と湧いて出る疑問をそのまま言葉にして尊寶へと投げかけるのであった。
「い――いったい、今まで、どこでなにをしておいででした。廖沈に斬り付け、衛士府に追われていると聞きましたが……ひょっとして、洪子とご一緒だったのではないのですか」
「全く、騒々しいな――張暉でもあるまいに」
そう苦笑する尊寶は、冬の陽射しの中に溶け入るように見えた。
こざっぱりした袍と落ち着いた声音からは、彼が凶状持ちだとは想像しがたい。しかし涼しげな目許には、かつてはなかった不思議な昏さが揺蕩っていた。
「廖沈との経緯はその通りだ。洪巨とは会っておらぬし何処におるかも知らぬ。……今までどこに隠れていたかは言えぬが、南宮老師がそこの邸を引き払って後は、ここに身を隠している」
まさか、かつての学派の活動の拠点のすぐ目と鼻の先に潜むとは、灯台もと暗しと云うが、その豪胆さに徐云は安堵を通り越して呆れ返ってしまった。
「おぬしたちの様子は、陰ながら見聞きしていた。南宮唐はじめ、皆、差し当たって無事で何よりだ」
「なぜそれを――」
言いかけて、徐云は、ああ……そうか、と言葉を呑んだ。
火車だろう。あの男なら、市井の中に溶け込んで自由に洛中を歩ける。彼が秘かに洛中の様子を聞かせているのに違いなかった。
「――火車ですね」
弟子すじの徐云が確信を持ってそう云うのに目を細めて肯いた尊寶は、廂房の部屋へと彼を誘なった――。
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