第13話
文字数 1,844文字
中庭に開く窓辺から、雨の匂いが漂い込んでくる。屋根の瓦を打った雨水は、軒の先から粒となって垂れていく。
東西南北の四方を建屋に囲まれた中庭は、すでに大量の水気を含んだ緑で溢れ、東側の建屋の屋根瓦は雨に濡れて淡く輝いて見える。
白河の畔の桃原は、ながい雨季に入っている。おりからの雨は、これでもう三日目となっていた。
南宮唐の邸の西廂房(西の建屋)――。
その窓際の卓に酒甕を置いた洪大慶は、これを開封すべきか否か、わりと真剣に悩んでいた。ちなみに陽はまだ正午にも達していない。
その背中に朗とした声が届いた。
「洪巨、ケチ臭い顔で酒甕を見るな。酒が不味くなる」
声の主は大慶と同じような年齢の頃の男だった。長身で、薄手の深衣を瀟洒に着崩した、男ぶりのよい美丈夫である。が、その声音といい目許の雰囲気といい、傲岸ともいえる怜悧さがわずかに面に表れていた。
大慶は間髪も置かずに、背中越しに言い返した。
「うるさいぞ、蕭帯。客なら客らしくおとなしくしておれ。だいたい、誰しもがおぬしのような〝底なし〟の大酒家ではないのだぞ」
〝洪 巨〟〝蕭 帯〟とお互いを字でなく諱で呼び合っていることから、ふたりの友誼の深さがみて取れる。
蕭帯と呼ばれた美丈夫は、卓上の酒甕をまえに思案顔を浮かべている大慶の脇に歩を進めると、うでを伸ばして無造作に酒甕の封を開けてしまった(……いうまでもなくそれは高価な酒である)。
ああっ、と情けない表情となった大慶の面前から酒甕を引き取った美丈夫は、そのまま卓の向かいの席に腰を下ろすと芳醇な香りを放つ酒甕を抱え込み、〝さっさと酒杯をもってこい〟と目で促すのであった。
大慶はひとつ息を吐くと、ふたり分の酒杯と肴をもとめて脇棟の厨房へと足を向けた。
この客人――蕭帯もまた章弦君の食客で境丘に学ぶ遊説家だった。大慶とは義兄弟の契りを結び、ともに門下というわけでないにもかかわらずこうやって南宮唐の邸に転がり込んでは酒を呷り天下国家の在り様を論じている。字を尊寶といった。
「……そしてそやつは、自らを〝亡涼の人〟と嘯いた――」
大慶と美酒の杯を交わしながら尊寶は〝この春の出来事〟について義弟が語る声を黙って聞いていたのだったが、大慶が何捷という少年との経緯を語り終えたときに、どうだ面白かろう、とばかりに言葉を切ったのに反応して、徐に顔を大慶に向けた。
「――どうだ」
果たして大慶は何のひねりもなく尊寶の顔を覗き込んでそう訊いてきた。
表情から推してみるに、その南宮唐を介して高偉瀚の門弟となった少年のことがよほど気に入ったらしい。まぁ、つまりは〝お気に入り〟の弟弟子自慢のようなものということである。
「なるほど、そいつは中々の矜持の持ち主とみえる」
大慶ほどには熱のこもらぬ声ながら尊寶はそう言って、手にした杯を目の高さにまで掲げ同意の意を示してみせた。
実際、五富族(※)、とりわけ姚姓の国々が隆盛を極める逢の世にあって富族との関わりを敬遠してみせるのは、いかにも世情に服わらぬ一刻者らしい。冠礼まえの少年がである。そんな少年に尊寶も興味を持った。
(※ 上古、嬴姓の国『恵』に服属していた姚・姒・姞・嬀・姫の姓を称する五つの有力血族)
「……それでその〝亡涼君〟は、今日ここへくるのか?」
「兵法を学びに一日おきにここへ通ってくる。先の話に上った女傑の勇敢な僕と、立青も一緒だ」
ここでいう女傑とは〝小明〟こと明璇で、その勇敢な僕とは徐云のことである。
立青は尊寶も旧知で、姓を持たぬ身分、つまり賤民、奴(男の奴隷)の少年だった。なぜ奴が南宮唐の邸で学問をしているのかといえば、すこし込み入った理由がある。
境丘に学匠が集り邸が立ち並び始めた頃のことである。それぞれの邸には数名の家僮(召使の少年奴婢)が付けられていたのだが、彼らをみた南宮唐はこう主張した。「われら墨家は兼愛を旨とするが、諸子においても学問に貴賤はないとお考えであろう。どうだろう、ここ境丘では邸の家僮にも門戸を開いては」と。
少壮の墨家の言葉に、儒家を中心とした名だたる学匠たちの多くは内心の冷笑を隠して鷹揚に肯くだけだった。儒家は身分秩序を重んじる。
南宮唐の邸では教場を開くにとどまらず家僮の役を解いてしまったのだが、彼らは皆邸から姿を消してしまった。他方、他の邸ではそのようなことは起きず、思うところがあったのか高偉瀚だけが家僮に意向を訊くということをした。立青はそのとき名乗り出た家僮である。
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