第37話
文字数 1,690文字
――つまり、何捷は暗に〝主上は昌公と組むことで太師と王淑を掣肘しようとしている〟と言ったのだった。
「それじゃ、主上は本気で王畿千里の掌握を考えておられるのか……」
騰政は呆然となった。
そんな騰政から視線を外した何捷は、移した視線の先に花子瀚の姿を見た。
講堂の入口に佇む子瀚は、何捷と視線が合った一瞬、苦み走った表情を浮かべたのだったが、次の瞬間には無視に徹することを決めたらしく、深衣の裾を振って威儀を正し、騰政の前に進み出た。騰政は、それに拱手して応えた。
「騰政。憶測で滅多なことを口の端に乗せるものではないよ」
子瀚にそう説諭された騰政は、さらに深々と揖礼をしてみせる。子瀚は満足気に頷くと揖を返し、それから身を翻してその場を離れる。
離れしな、気まずそうな表情でいた張暉少年の面前で立ち止まり、
「そなたも、つまらぬ噂話を振りまくようなことは慎まれよ」
そう言いのけ、傍に居た徐云に軽く一礼をして去っていった。
徐云は丁寧な揖の礼でそれを見送った。隣で張暉もまた、首を竦めながら礼をする。もっとも、彼は伏した面の下で――これは、まずいところを見られてしまったなぁ、と…――少年らしく小さく舌を出していたのだが。
そうこうしていると講堂に高偉瀚が姿を現し、門下の学徒は急ぎ座に戻って立礼で師を迎えたのだった。
かくしてこの日以来、境丘において、逢の宮廷における政変の気配は、知らぬ者なき公然の秘密となった。
徐云は、この政局について、蕭尊寶の見立てをすぐにでも聴きたいと思った。しかし、彼は件の変法の諮問で洛邑に留め置かれており、ここ桃原に居ない。
そんな最中、高邸の徐云のもとに簡の邸の家人が訪ねてきた。彼は学徒の捌けた外院(外側の中庭)に徐云の姿を認めると、傍らまで寄ってきて告げた。
――簡孟姚(=明璇)さまが、此度入洛することとなった章弦君の養女・娥姚さまに侍して、桃原を離れることになりました、と。
徐云にとって、それは、青天の霹靂だった……。
簡邸の後罩房(正房の奥の建屋)でくつろいでいた明璇は、使いを遣ったその日のうちに徐云の来訪を家令から告げられて、思わず飛び上って喜ぶということと、こころの中ではほくそ笑むということを、器用にも同時にやってしまっていた。
はた目にはただ飛び上っているだけなので、家令からは眉を顰められることになったのだが、明璇はすまし顔を取り繕って家令を下がらせると、逸る気持ちを抑え、先ずは装いを直すために端女の家童を呼んだ。
こうなるように仕向けたのは、たしかに明璇なのだった。
使いの者には、敢えて経緯などを語らずに娥姚さまに付いて洛邑入りすることだけを伝えさせたのだ。それが、こうまで期待通りの結果を得ようとは。
浮き立つ心を抑えきれない明璇は、身繕いを終えるや、徐云が通された応接間へと急いだ。
「……小云――」
「――簡孟姚さま……」
明璇が部屋に入るや、ふたりは同時に声をあげていた。
本来、目上にあたる明璇から声を掛けることは慎まなければならないのだが、明璇にとって徐云は身内同然だとの思いが強いことがそうさせた。
一方の徐云は、そういう明璇の機先を制さねばと満を持していたはずなのだが、揖礼を省くことのできない分、ことばが遅れてしまった。
(ああ…――)
しっかりとした礼容を示してみせた徐云に、明璇はばつの悪い表情になって目を逸らせる。
(――そうだった。もう〝小云〟と〝璇璇〟というわけにはいかないのだっけ)
年が明ければ明璇は十五歳。加笄の許される年齢に達する。これまでのように素直に情誼を交わせるわけはないのだった。
「簡孟姚さまに於かれましてはお変わりのないご様子。実に喜ばしく存じます」
徐云の、その如何にもかた苦しい口上に、明璇は頷いて返した。せっかく簡の邸に呼び寄せることができたのに、これでは何のために一手を講じたのかわからなかったが、先ずは礼式は守らねば。
「そなたも清適(※)の由。何よりです」
明璇はあらためて徐云を向くと、王淑公孫の家柄の娘の正しい礼容で、そう応じた。
(※ 心身が清々しく安らかなこと)
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