第50話
文字数 1,845文字
結局、高偉瀚からの洛邑行きの話を、徐云は応諾した。
立青が逝き、洪大慶は境丘を去り、さらには何捷も黙って高邸から姿を消した後、正直に言えば、徐云は気欝な日々を送っていた。
冷静に周囲を見ても、鷲申君の閥と目される境丘の周辺では、事態が切迫の度合いを強めつつあるのを肌で感じる。
このまま桃原で学問を続けていって、果たして道は拓けようか……。
徐云は考えた。
すると〝何者にも屈することのない〟目の何捷が脳裏に浮かんできた。何捷の目は語りかけてくる。――おまえは、まだそこに留まるのか? と。
その何捷が〝范詳〟として洛邑に向かっていることなど徐云は露とも知らない。ただ、そういう心象に、〝負けるものか〟と、若者らしい気骨が湧いてくる気がした。
それで徐云は洛邑行きを決めた。
「結局なんやかんや言って、さっさと洛邑行きを決めちゃうんですもんねぇ」
鄭氏の邸の廂房。手習いを終えた家人が捌けた教場で、他人の耳目がなくなったのを確認しつつ、不満そうに口を尖らせて顔を向けてきたのは張暉である。何捷が境丘を去って、手習いの師範役を引き継いだのは十二歳の彼だった。
洛邑行きのことは、邸の女主人・翠雅雯には伝えた。雅雯は立青のことも、その後に何捷が逐電したことも承知していて、一人残された徐云を心配してくれていた一人。このたびの洛邑行きについても快く承諾してくれた。
あとは心残りと言えるのは麗雯だったが、そちらの方には話を切り出すことが出来ないでいた。洛邑に行けばしばらくは会うことが出来ないのだと、今さらながら気付いて落胆する自分がいた。それに今一つ。――何捷は、境丘を去る前に彼女に会っていったのだろうか……。
そんな徐云の追憶を引き戻すのは、声変わりをしていない張暉の声である。
「――ですが気をつけてくださいよ。いまや洛邑の王宮は太師派と昌公派に分かれた卿士大夫が互いの足を引っ張り合うという、権謀術数の場と化しているそうですから」
徐云は苦笑を飲み込んで、年少の同僚を見た。
そういう話は〝耳聡い〟張暉ならずとも聴こえてきている。逢の宮廷・六官府の官吏の中には、用もないのに大師の邸に日参するおべっか使いや、反対に「今こそ出世の好機」とばかりに、昌公緩にすり寄る者もいるという。
宮城の勢力は、とりあえず状況をうかがう日和見主義が六、太師派の卿士大夫が二、それに昌公派が二といったところだ。
昌公の背景には〝変法〟を掲げる天官宰輔・蔡才俊がおり、天子はその考えに関心を寄せていると聞く。
公然と王の口からそれが示されたわけではないが、すでに王の寵が移ったことは明らかであった。
とはいえ、太師・鷲申君はじわじわと狭められる昌公からの包囲網に抗いつつ、いまだ厳然たる勢力を有している。同じ王淑公室の血胤である王淑公、章弦君は言うに及ばず、畿内五富族の有力家門の者をつぎつぎと宮廷と六官府の要職に配し、その権力を維持していた。
かくして両者の力関係はほぼ同等。七千人の官人と宮城は、非常に危うい均衡の上で日常を送り続けている。
〝太師か太傅、いずれかが病気で逝ってくれれば、世は安泰か――〟
〝不謹慎ながら、まことに〟
そんな呟きがあちこちで囁かれるのも、致し方なかった。
「――…南宮老師はあの通り人品に欠けるところがおありですし、蕭子は〝可愛げのないこと〟境丘一。……ですから、ここは除子のご愛嬌が肝要」
ぺらぺらとよく回る張暉少年の口に、徐云はいささか唖然となった。
「張暉……おまえ、そんなふうに老師と蕭子のことを観ていたのか……」
あ! と張暉は肩をすくめ、不意に子供っぽい顔に戻る。徐云は内心、さらに呆れた。――まあしかし、中身と裏腹なこの童顔が、張暉の武器である。
「そんなことより、除子、あなたです。しっかりしてくださいよ。――洛邑の廷吏・官吏は、皆ひと癖もふた癖もある〝食えないもの〟揃いと云いますから」
顔を寄せ態とらしく声を顰める張暉に、徐云は、その言はおかしいのではないか、と思っている。南宮唐と蕭尊寶が桃原の〝食えぬもの〟の代表だと言ったのは張暉だ。洛邑の〝食えぬもの〟と、桃原の〝食えぬもの〟とが相争うのだから、これはもう、自分などは出る幕などないのではないか。そのように徐云は思った。
そんな徐云を、頼りないものを見るような表情になって見上げる張暉少年はというと、
「これは心配だなぁ……。やはりぼくが付い行かねばなりますまいか」
などと、真面目に気を揉む様子なのであった。
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