第65話

文字数 1,907文字


 九月二十六日。(シュイ)(ユィン)麗雯(リーウェン)は、洛邑の賈人・(シィァン)(イー)の遣いで現れた(ディン)少琪(シャオチー)の用意した馬車で洛邑に入った。覆いと天蓋の付いた軒車だった。
 洛中では、王城に籠る頃王と太傅の手勢と、それを囲む前太師・(イャォ)(ファ)の手勢とが、内城の城壁を挟んで睨み合っており市中は閑散としていた。市井の営みの消えた都内の粗方(あらかた)を押さえているのは黄色の旗を掲げた姚華の兵であった。
 そんな洛邑の条坊をゆく軒車の列は、度々兵に行く手を遮られたものの、丁少琪が持つ符を見せただけで臨検を免れ、更には揖礼する兵らの徒列で見送られるのだった。それは卿太夫の一族への礼式といってよい。
 確かに祥逸は大賈と聞いているが、これはさすがに尋常ではない。徐云は馬車の周囲の動きに留意を深めた。

 丁少琪という女は、〝主人である祥逸は(ホー)(ジェ)の友人だと〟、そう言った。
 だがそれ以外のことは何も教えてはくれず、道中は、麗雯と都洛邑の遊楽話に花を咲かせるばかりであったのだ。
 さて、麗雯を後見する(ツゥイ)雅雯(ィアウェン)の文によれば、何捷は洛邑に麗雯を太夫の後裔(すえ)として養育してくれる者を見つけている、とのことだった。その養育者とは祥逸ということなのだろうか。
 もしそうであれば、こういう見方も出来るということに、徐云は気付いている。――麗雯は祥の家に家妓として抱えられることとなったのではないか、という……。

 それは徐云にとっては憂鬱な顛末である。だが徐云は、ふたつの事柄で()()()はないと理解もしている。
 ひとつには、何捷がそのようなことを承知しようはずがない、という確信――。
 旧主の裔たる麗雯――彼にとっては(ツイ)(イン)――を再び妓妾の身に貶めることを、あの何捷は絶対にすまい。それほどに彼女( )(……というより〝嬴〟の血胤)のことを何捷は(うやま)っていた。
 そしていまひとつに、この上洛における麗雯の振る舞いである。
 この度の上洛は麗雯自身が強く望んだことだった。仮に麗雯を祥邸の家妓に入れるという話であれば、翠雅雯がその事実(こと)を伏せようはずはなく、麗雯が知らぬはずがないのである。

 何捷は祥逸との間に、いったいどのような交誼を得たのだろうか。
 それすら判らぬことに、ふたり――麗雯と丁少琪――とは別の車中の徐云は、やきもきするばかりなのだった。

 そんなふうに心の深部で身構えている徐云を乗せた軒車の車列は、やがて市中の大きな邸の前で止まった。そこが祥氏の邸らしい。軒車から下りた彼らは、遠く王城の方から(とき)の声が(かす)かに聞こえる中、邸の門を潜った。
 門の構えに比して邸の規模は大きかった。
 影壁( )(門を入った所にある目隠しの障塀)のところで丁少琪は揖をして辞し、替わって家宰と思しき四十絡みの落ち着いた男が現れ、徐云と麗雯の案内を引き継いだ。
 垂花門を抜けて内院に出たふたりは、そこで邸の主人(あるじ)だろう上衣下裳に(さく)(=頭巾)を乗せた目端の利きそうな中年男と、その隣に立つ深衣姿の若い官に迎えられた。
 先ず麗雯に膝を折って揖礼をし、それから徐云に拱手したその若い官の顔が見知った者のものであったことにふたりが気付いたのは、面を上げた官が拱手を解いたときだった。
「あ、あなた……‼」「…――(ホー)(ジェ)⁉ ……なのか」
 表情を変えることなくふたりに肯いたその顔は、少し大人びてはいたが、確かに何捷のものだった。ただ解せぬことに、十八歳の何捷の頭には冠がに乗っていた。そのことが、徐云をして懐かしい友の顔であることに気付くのを遅らせたのだった。

 その夜、祥逸の設けてくれた宴が終わり麗雯の許を辞した徐云と何捷は、東廂房(とうしようぼう)の一室で近況を語り合った。
 (リィゥ)(マン)との出会い。祥逸を介して昌公に謁したこと。(ツァィ)宰輔に引き立てられ天官の史生にあること。……もちろん素性と年齢(とし)を偽り、現在(いま)(ファン)(クゥァ)と名乗っていることも何捷は隠さずに明かした。
 一方の徐云の方は、洛邑の南宮(ナンゴン)(タン)の下に(ヂャン)(フゥイ)と共におり、境丘の(ガオ)偉瀚(ウェイハン)との間を連絡して二つの都を行き来していること、章弦公主に陪従した明璇(ミンシォン)と桃原の(ジェン)邸との書簡の往来を(たす)けていることなどを語った。
 そうして、明璇が章弦公主ともども流満に保護され無事であると聞かされたときには、大きく息を吐いて安堵の表情を浮かべたのだった。

 互いに伏せた事柄もある。
 何捷は、太傅・昌公の側に積極的に加担し、太師と王淑の側を見限ったという事実は、敢えて語らなかった。
 徐云は、高偉瀚から命じられた間諜のことと、麗雯との関係(こと)を語れなかった。

 そうした中で何捷は、どうやら(シャオ)尊寶(スンバォ)が自分のことを徐云に語っていないことを察している。尊寶なりに思うところがあったということだ。
 だから何捷は、天官府での尊寶のことを、どう切り出そうかと思案することとなった。
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