第12話(終章)
文字数 1,642文字
立ち止まった徐 云 は、そう訊かれることを予期していたのだろう、いったんは明璇 から目を逸らしたものの、決意を宿した目で彼女を振り見遣った。
その目の表情に、明璇のそれまで膨らんでいた心はたちまち萎 むことになった。
「僕は戻らないよ、璇璇 」
短い言葉が、徐云はもう決めてしまっているのだ、という事実 を、今さらながらに突き付けてくる。それでも明璇は、敢 えて気付かないふ り をして続けた。
「高 老師 の下で学ぶことはいいわ。でも簡 の邸 からでも通えるでしょう?」
徐云の表情に変化を見出せないまま明璇は歩みを再開しなければならなくなり、彼の隣に並んだときには目も合わせられなかった。
冷たいままの表情で――明璇はそれがやはり哀しかった――…徐云の前を過ぎると、彼はいったん彼女を先に行かせて、少し後ろに附き従うように歩調を合わせた。
聴きなれた落ち着きのある声で、徐云は言った。
「老師の教えをただ聴くだけなら簡 の邸から通ってもできる。でも、それじゃ僕は王淑で立身できない」
――立身。
徐云もそうなのか……。才ある男たちは栄達のための学問をして宮廷への出仕の機会を窺う。……きょう境丘の門道で出会ったあの何捷のように。
自分と〝小云 〟とを別つようになったと思しきこの得体のしれないものに、明璇は敵愾心に似た感情を覚えた。
「そうかしら……」
だからその感情を秘めて、明璇は、この状況を受け入れようとしている徐云に異議を唱えてみせた。
「簡 氏は王淑公孫の家柄……その後ろ盾があるということは、小云 の立身の役に立つのではなくて?」
言いつつそれが、おそらく、もう無駄なのをわかった上で……。
果 たして、やはり徐云は、はっきりとそれを拒絶したのだった。
「簡 氏の縁故は使わない」
――ああ、やはり〝小云 〟も自分を置いていってしまうのだ……。
そういう彼を決断させたのが他ならぬ自分の言葉であったことに思い至れない明璇は、やり場のない想いを口に出した。
「お父さまの不在で傾く簡 氏の後援など要らないというの?」
徐云という存在が、決してそのようなことを思うことがないのを知っていながら、せめてそう言って怒らせてやりたかったからだ。……怒らせたからといって、それでどうなるものでもないのだけれど。
「…………」
一方、そんなことを言われた徐云の胸中は、外目はともかく、穏やかであろうはずはなかった。
自分が境丘の学徒を志すのは、ただ明璇を思えばこそなのに……。それを言うに事欠いて〝父子二代にわたる恩顧のある簡氏を見限った〟ように言われるとは。
自分が熟考の末、高 偉瀚 の門を叩いたのを事前に相談しなかったことが、やはり明璇はゆるせないのだ。
徐云は、果たしてこの自分の断が正しかったか、わからなくなってしまった。
そんな徐云がうなだれるすぐ前を、もはや振り返ることなく明璇が歩を進めていく。
「いいわ…――」
ずいぶんと歩みを進めて、背中越しに明璇が言った。
「わかりました。あなたの荷物は明日、高 老師 の邸に送り届けることにします」
その語尾の震える声に、徐云の面は跳ね上がった。
「…――簡 の邸には、〝冬至〟(年始の日)と、〝掃廟節〟(春に祖先を祀る日)以外、帰ってくることは許しません。
わたくしを置いて出ていく以上、懸命に学問をして、きっと高 門下一の俊才となってみせなさい!」
声の震えの中に、怒るふうを必死に演じることで、決して泣くまいとようやく堪える女主のいたいけな様を、はっきりと聴き取ることができたからだった。言葉尻こそ険しいが、冬至と掃廟節の日には必ず帰ってきなさい! と言っているのを徐云は理解できた。
その声の震えを聴けただけで、自分の断は正しかったのだ、と思うことのできる徐云である。
徐云が胸に熱いものを感じたときには、ふたりはもう、簡氏の邸の表門前だった。
明璇は、ついに一度も振り返らぬまま、常よりも大きな歩調となって門の中へと消えた。
深々と低頭した徐云は、想いを新たに、その姿を見送ったのだった。
その目の表情に、明璇のそれまで膨らんでいた心はたちまち
「僕は戻らないよ、
短い言葉が、徐云はもう決めてしまっているのだ、という
「
徐云の表情に変化を見出せないまま明璇は歩みを再開しなければならなくなり、彼の隣に並んだときには目も合わせられなかった。
冷たいままの表情で――明璇はそれがやはり哀しかった――…徐云の前を過ぎると、彼はいったん彼女を先に行かせて、少し後ろに附き従うように歩調を合わせた。
聴きなれた落ち着きのある声で、徐云は言った。
「老師の教えをただ聴くだけなら
――立身。
徐云もそうなのか……。才ある男たちは栄達のための学問をして宮廷への出仕の機会を窺う。……きょう境丘の門道で出会ったあの何捷のように。
自分と〝
「そうかしら……」
だからその感情を秘めて、明璇は、この状況を受け入れようとしている徐云に異議を唱えてみせた。
「
言いつつそれが、おそらく、もう無駄なのをわかった上で……。
「
――ああ、やはり〝
そういう彼を決断させたのが他ならぬ自分の言葉であったことに思い至れない明璇は、やり場のない想いを口に出した。
「お父さまの不在で傾く
徐云という存在が、決してそのようなことを思うことがないのを知っていながら、せめてそう言って怒らせてやりたかったからだ。……怒らせたからといって、それでどうなるものでもないのだけれど。
「…………」
一方、そんなことを言われた徐云の胸中は、外目はともかく、穏やかであろうはずはなかった。
自分が境丘の学徒を志すのは、ただ明璇を思えばこそなのに……。それを言うに事欠いて〝父子二代にわたる恩顧のある簡氏を見限った〟ように言われるとは。
自分が熟考の末、
徐云は、果たしてこの自分の断が正しかったか、わからなくなってしまった。
そんな徐云がうなだれるすぐ前を、もはや振り返ることなく明璇が歩を進めていく。
「いいわ…――」
ずいぶんと歩みを進めて、背中越しに明璇が言った。
「わかりました。あなたの荷物は明日、
その語尾の震える声に、徐云の面は跳ね上がった。
「…――
わたくしを置いて出ていく以上、懸命に学問をして、きっと
声の震えの中に、怒るふうを必死に演じることで、決して泣くまいとようやく堪える女主のいたいけな様を、はっきりと聴き取ることができたからだった。言葉尻こそ険しいが、冬至と掃廟節の日には必ず帰ってきなさい! と言っているのを徐云は理解できた。
その声の震えを聴けただけで、自分の断は正しかったのだ、と思うことのできる徐云である。
徐云が胸に熱いものを感じたときには、ふたりはもう、簡氏の邸の表門前だった。
明璇は、ついに一度も振り返らぬまま、常よりも大きな歩調となって門の中へと消えた。
深々と低頭した徐云は、想いを新たに、その姿を見送ったのだった。