第80話

文字数 1,988文字

 ようやく姿を現わした(シャオ)尊寶(スンバォ)に、(リャオ)振瑞(ヂェンルイ)はすっかり狼狽することになった。
 半歩ほど後退りはしたが、直後に、体が硬直でもしたかのように動けなくなってしまう。
 間髪を置かずに動いたのは、尊寶の背後で縄の端を持っていた警吏だった。
 警吏は剣を抜くや、周章する(まごつく)ことなく尊寶を拘束する縄を切って放ち、剣を尊寶の手に握らせる。そして自らは、手甲の中に隠していた匕首(ひしゅ)(=(つば)の無い短刀、あいくち)を抜き、尊寶の背後に居並んでいる兵らを牽制する構えを見せる。警吏の横顔が火車(フゥオチゥー)のものであったことに、(ホー)(ジェ)はいま気付いた。
 その身の拘束を解かれた尊寶は、手渡された剣の(さき)をまっすぐに振瑞へと向けた。

(リャオ)(シェン)。私は、貴様だけは赦せぬ」
「なにを…――っ!」 
 剣を突き立てるように襲い掛かった尊寶を、廖振瑞は何とか(かわ)した。かつて境丘で、士分の嗜みとして共に交わした、相対での剣の型稽古の動きが咄嗟に出て、それで振瑞は、なんとか剣尖を避けることができたのだった。
 だが同時に、型稽古のものとは明らかに違う殺気を、尊寶から感じることにもなった。
 振瑞は周囲の兵らを見回し、裏返った、悲鳴にも似た声を上げた。
「……だっ、誰ぞ! この(くせ)者を捕らえよっ、捕らえぬか」
 辻に配されていた兵らが、これで動こうとする。それを火車が、手にした匕首をことさらに振り回して見せることでわずかに遅らせた。

 そのわずかに生じた隙を突き、剣把(けんぱ)を引いた尊寶が、体ごとぶつけるようにして距離を詰めた。
 自身の身体が振瑞の懐に飛び込もうという瞬間、尊寶は事の成就を確信する。彼としては会心の動きだった。――もう一度おなじ事をしてみせろと云われても無理だろう。
 だがそれは、武術の心得のない者のみた、儚い夢でしかなかった……。
 廖振瑞の悲鳴が上がったときにはもう、大きな影が、まるで虎の如くにしなやかな身のこなしで動き出していたのだ。

「待て! 次倩(ツーチィェン)……駄目だっ ――そいつは殺さないでくれっ」
 何捷が叫んだときには、もう遅かった。
 尊寶の剣尖が(まさ)に振瑞の胸元にあてがわれようというその瞬間(とき)には、すでに駆け出していた流満が横合いから振瑞を蹴り飛ばしていた。何捷の制止の声など耳に届いていないのか、流れのままに抜剣し、目標を見失って踏鞴(たたら)を踏む尊寶へと踏み込んでいく。そして肩口を掴んで振り向かせると、その胸の骨と骨の間へと剣を突き立てた。

 流満の背の動きが止まったとき、唐突に、(シュイ)(ユィン)の泣き顔が脳裏を()ぎった。
 蹴り飛ばされた先で、立ち上がりしなに、よくやったと狂ったように喝采を続ける廖振瑞も、三人の兵に阻まれながら尊寶に何ごとかを叫ぶ火車も、すべてが何捷の意識からかき消えた。
 流満の背にさえぎられ、尊寶の顔は見えない。末期(まつご)の声も聞こえない。すべてが無音となった中で、剣を引き抜く流満の背中だけが、妙にくっきりと目に焼き付いた。
 目の前でなにが起きたのか、頭の方が付いて行かない。身動きもできず、立ちすくむままの何捷を、流満が振り返って云った。
「悪かったな、仕留めてしもた。仲間の居場所なりを吐かせられたかも知れへんかったのに、しくじったな」
 流満にとっても、見た目ほどに余裕は無かったのかも知れない。斬るな、と叫んだ意味を、「捕らえよ」と解釈した様子だった。
 何捷は懸命に表情を取り繕い、いや、と首を振った。握り締めた(こぶし)が、微かに震えているのを気付かれなかったことは幸いだった。
 思い出したように何捷は顔を上げ、辺りに視線を走らせた。火車の姿を捜す。彼の姿はもう消えていたが、幸いにして付近に骸の数は増えていない。どうやら逃げ去ってくれたらしかった。
 辻の真ん中に倒れ込んだ尊寶の体は、もはやぴくりとも動かない。
 何捷は流満の隣まで歩いていくと、尊寶の(むくろ)を見下ろした。
 白い貌に何らの表情も無かったことに、何捷は思わず右の掌で自分の両の目を覆った。
 流満に、蕭尊寶を捕らえることこそが今宵の真の目的だと告げなかったのは自分だ。それがこのような結果を招いたといえる。――…度し難い失錯(しっさく)だ。
 尊寶は、自分に気付いていただろうか。斬るなと叫んだ声が自分のそれだと、わかっただろうか。
 彼がなぜ、廖振瑞の如き小人への報復にこれほどまで固執したのか、(つい)にわからなかった。命を賭してまで、いったい何を通さねばならなかったのか。
 自分を含めた何もかもが、あまりに大きな過ちの中に落ち込んでいるように思われてならない。
「早く船に乗り込んでしまおう。他にも賊が潜んでおるやもしれぬ」
 ようやく気を落ち着けた廖振瑞が、軒車へと戻りしなに云ったその言葉に、何捷は、確たる理由もなく殺意の込み上がってくるのを感じた。
 なぜ、蕭尊寶が死んで、こいつはのうのうと生きているのだ……。
 だがその胸の内に沸いた疑念を押し殺した何捷は、ただ、行け、と御者に出発を命じたのだった。
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