第18話
文字数 1,558文字
さて、そんな王孫航がこもる妓楼の門前に辿り着いた徐云と何捷だったが、そこで足が止まった。どちらかともなく顔を見合わせる。
境丘に学ぶ学徒が、昼日中から妓楼にあがるなど外聞がいいはずがない。ましてふたりは冠礼まえのみそらだ……。
(おまえが行けよ)
(ぼくが、かよ)
(この前は俺が行ったぞ)
(…………)
表情による無言の応酬のすえ、結局、何捷の〝圧〟に負けた徐云が歩み出ることとなって、門のうちで控える店の者に顔を向けた。
もしこの様子を誰かが見ていて、尾ひれが付いて明璇の耳に入ったりしたら……。
考えるだに恐ろしい徐云である。
目を合わさずにそっと進み出てきた店の〝若い者〟に、徐云は用向きを伝える。すこし待たされた後、中へと通された。
王孫航のなじみの妓女の部屋は内院の廂房にあった。
店の者の後について邸内の二の門をくぐり、雨間の内庭を、誰かのつまびく琴の音やら若い娘のさんざめく声などを聴いて歩いていく。そんなふたりに、しごと合い間の妓女たちの、商売っ気も屈託もない視線が集まる。
それを若いふたりは否応なく感じた。
手を振ってくる娘や、ことさらに艶っぽい目線を送ってくる娘、なかには着崩れた着衣の胸元を、これ見よがしに向けてきたりする娘もいる。
ぎこちなくなったふたりの歩様を、可笑しくてしかたない、というふうに笑う彼女らは、もちろん彼らが〝客〟でないことは承知していて、男性としても〝質の良い〟部類だと、安心して揶揄っているだけである。
揶揄われている徐云と何捷は、まあ立つ瀬がなかった。
艶めかしい娘たちの視線の中を内院の西廂房まで案内されると、徐云と何捷は、一礼して中庭をとって返す店の者を見送った。それからまた顔を見合わす。こんどは黙って何捷が進み出た。
「高子の使いで参りました。何捷と徐云です」
何捷は、ことさらに声を張り上げ、長揖の拱手をした。慌てて徐云も拱手する。
くすくすと、黄色い笑い声が彼方此方から聴こえた。
そんな黄色い笑いに、ふしぎと通るやわらかな声が重なった。
「――ああ、ごくろうであった。兎にも角にも入られよ」
王孫航の声は、類まれなる美声だった。
内庭に向いて明るく窓の採られた部屋に入ると、(当りまえだが……)ひと組の男女が寛いでいた。
何捷と徐云は、男と女、それぞれに跪拝(跪き上体を屈めて敬意を表すること)した。
「雨季ももう終わるが……今日のところはまだ蒸す」 凭几(脇息=脇ひじ掛け)に身を凭せたすらりと見目のよい優男が、ふたりに面を上げるように手振りしながら、手にした杯を掲げて訊いた。「まずは嗜まれるか」
彼が王孫航である。字を〝仲逸〟。
この気障男、所作のひとつひとつが妙に気取っていて仰々しいのだが、それが、たとえば花浩のような権勢の中枢に生まれ育ったものに感じるような〝周囲に気後れを誘う〟ようなものを意識させられることがない。ひとつにはやはり、彼の周囲には、権勢の匂いがないからであろうか。
それはさておいて、杯を勧められた何捷と徐云の方は、どうすべきか躊躇うこととなった。
べつに酒が飲めないわけではない。が、境丘に学ぶ学徒が昼日中から酒を口にするのは如何なものか。
困った表情の徐云は、目線を、王孫航の隣に座卓を挟んで座る美妾へと移した。
彼女がこの部屋の主である。本当にうつくしい。字を〝雅雯〟といい、桃原一の妓楼「青翠院」の花形である。本当の名は、徐云や何捷などは知る術もない。
目が合うと、雅雯はすこし小首を傾げるようにし、きれいな目に微笑を湛えて、卓上の小ぶりの甕から柄杓を引き上げてみせた。
徐云は、いよいよこれはどう辞そうか、思案せざるをえなくなったのだが、そんな徐云の隣の何捷は、やはり、というか……
「いただきます」
と、もう進み出ていた。
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