第41話
文字数 2,051文字
何捷のなかで何かが弾けようとしている。
その気配を隣に感じる徐云の視界には、膝をつき、鮮血を溢れさせる立青の目元を、自らの胡服を裂いた布で充てがう洪大慶の背中がある。
当に〝それ〟が弾けようという瞬間、徐云は隣の友の腕を掴んだ。
それが荒々しく振り払われ腰の剣の柄に伸びるよりも早く、何捷の痩躯は何者かに足を払われていて、横っ面を地面に押さえ付けられていた。何捷を組み伏せその頭を押さえ付けたのは、境丘で同じ高偉瀚に学んだ花子瀚だった。
子瀚は、彼にとっての不肖の弟弟子が暴発することで境丘に学ぶものすべてが――否、高偉瀚の門下が――、逢の王族・姚光銘の勘気(目上の人の咎めや怒り)を被ることになる事態を懼れた。だから立青が光銘に絡まれたとき、このようなこととなれば防がねばならぬと、何捷に近付いていたのだ。
「……なぜだっ」 上から押さえ付けられても、何捷は首を廻らし、声を出そうとした。「――…頑是ない(※)子供のしたことではないか! なぜこのようなことくらいで、こんな目に遭わねばならない!」 (※幼くてまだ事の是非の判断がつかないさま)
何捷は渾身の力で子瀚を押し退けようとする。徐云は子瀚に加勢し、必死に何捷を押さえ付けた。
――このままでは何捷も姚光銘の勘気に触れ、どのような危害を受けるか知れない。自分の〝友〟が謂われなく傷つくのは立青だけで十分だ。
そんな徐云と、高偉瀚の門下の覚えを慮る花子瀚とが、一緒になって何捷を押さえ付ける。それでも何捷は身を捩り、数歩先で不快気な表情で見下ろす光銘を上目に見据えようとした。
「この痴れ者がっ――」
子瀚は光銘にことさら大仰に何捷の顔を地面に押し付けて見せると、何捷の耳もとだけに小さく鋭く囁いた。
「黙っておれ! いまは堪えろっ」
彼にとっては、こんなことで高一門に禍が降りかかるのは堪らぬと、必死なのである。が、その子瀚とて、光銘のような王族の横暴に反撥がないではない。武成尤の裔、名族・花氏の血を引く…――などといっても、五富族の本流でもなければ王家の前では〝風に吹かれる穂上の枯花〟も同じ。庶人と然してかわりはない。その意味で〝光銘の前の何捷〟は子瀚なのだった……。
「王孫公子――」(※公子=若君の意。貴族・名門の子弟への称)
徐云が何捷の脇を離れ、面を伏しながら光銘に躙り寄って声を上げた。
「――〝明君は怒りを懸けず〟と申します。この者は血の匂いに動顛し、あらぬことを口走ったまでのことです。どうかお赦しください!」
学派の後進ふたりの必死さを背に、ついに大慶も膝を進めて言上した。
「…――公子。某からもお赦しを請いたく存じます」
本日の第三等の能射に深々と拱手をされた光銘は、鼻白む以外なかった。背後から章弦君から「王孫公子、お早く。王淑公がお待ちです」と促されれば、あとは〝もうどうでもよいわ〟とばかりに踵を返し、この場を離れていったのであった。
奇禍の去った陣幕には、立青の呻き声と何捷の怒気を帯びた唸り声、そして童女のすすり泣く声が寂しく響くばかりとなった。
その夕、高偉瀚の邸に戻った立青は、寝台に付き添う徐云と何捷に、乾いた声で切願したのだった。……「殺してくれ」と。
そのようなことをしたくない徐云は、ただ空しい励ましの言葉を、仰向く立青の耳元に聞かすだけだった。何捷はただ黙って、そんな立青の手を握ってやっていた。
いたたまれなくなった徐云が、外の空気を吸って部屋に戻ってくると、寝台の上の立青は心臓の辺りを赤く染めて絶命しており、寝台の脇には、剣に着いた血糊を幾度も布で拭う何捷の姿があった。
「――何捷! ……そんな、おまえ、なんてことをっ」
徐云の悲鳴のようなその声に、何捷は咽ぶような声になって応えた。
「――…云……、おまえは、卑怯だ……」
「……卑怯、だって?」
「おまえだってわかっていたはずだ。賤の身の立青が視力を失えば、この先に生きる道のないことを……」
「――それは……でもっ」 反射的に徐云は反論していた。「死んでしまったら……生きていれば……」 が、後が続かない。
「目の見えなくなった立青に、この先学問ができるのか? こいつから学ぶことを奪ったら、こいつの残りの人生に、いったいどんな意味があるんだ。目の見えぬ奴として、死ぬまで惨めな……」 何捷は、それ以上の言葉を噛み殺した。
(そうだ。……立青にとって、学ぶということがただ一つの望……生きる意味だった。僕は、友の命そのものというべき最後の願いを、何捷ひとりに押し付けた……)
徐云は、不意に立青の心情を自分のものとして感じて、絶望に膝が落ちるままとなった。何捷が獣の咆哮を上げて剣を振り上げた。そのまま剣身を土壁に叩きつけると、あとは咽び泣く声が部屋に響いた。
「――…おれは……俺の学問は……、無力だ……っ」
嗚咽の合い間に絞り出されたその言葉に涙が溢れ、徐云は頬を濡らす。
桃原の秋。夜風の合い間に、若いふたりの慟哭が木霊すのを、誰か聴いていたろうか。
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