第53話

文字数 1,674文字


「――あんなちび助が?」
 明璇(ミンシォン)の、その婦言のない〝ちび助〟という言葉に反応して、(ヂャン)(フゥイ)の眉根の片方がぴくり、と跳ね上がった。
 確かに張暉は、伸び盛りの年齢(とし)に差しかかったにしては背が低い。当人がそれを気にしているのを知っているだけに、(シュイ)(ユィン)は急いで口を差しはさんだ。
「――こちらが(ジェン)の邸を守る家宰よりの書簡です。お(あらた)めを」
 明璇は、ことさらに声音を改めた徐云の意を察して、受け取った書簡を袋から出すと手ずからそれを開いた。明璇はこの時代の女性としてはめずらしく字を解し、文章を扱えた。かなりの速さで冊簡が手繰られていく。
 張暉の明璇を見る表情が改まった。……これはひょっとして、すごい女性(ひと)なのでは(……口を開かなければ)と。

「じゃ、(シュイ)(ユィン)が洛邑と桃原とを往復するというのね」 明璇の目が輝く。
「そうなります……」
 揖の礼で応える徐云の言葉尻がわずかに濁ると、明璇の目は一瞬で怪訝となった。徐云は慌てて目を伏せる。
(……あぶない、あぶない)
 久しぶりに会えたのが嬉しく、動物的ともいえる明璇の勘のよさを忘れていた。

 書簡には、主人(あるじ)不在の(ジェン)邸を預かる家宰と洛邑の明璇との間の諸々の確認事項や指示について、今後は徐云に言付けることにしたいと、そう書かれていた。
 それは表向き、簡家の家宰からそれを願い出たことになっているが、じつのところは、(ガオ)偉瀚(ウェイハン)南宮(ナンゴン)(タン)、それに家宰の三人が示し合わせた上でそうしたこと……つまりはこうである――。

 境丘に座する高偉瀚と洛邑に入った南宮唐は、互いに間を繋ぐ仕組みを欲しており、ある程度の頻度で洛邑と桃原とを行き来する信頼のおける者を捜していた。それで白羽の矢が立ったのが徐云で、先年の秋から章弦公主に従って入洛している簡孟姚との関係がそれに資すると見込まれたのだった。
 話を持ち掛けられた家宰は、これまでとは逆にいわば逢王室方に人質に取られた態となっている簡孟姚に()()()()()()()()()()()()()となると承知をした。家宰は逢王室と王淑閥との軋轢を憂慮しており、()()()()()は現実的だった。

 そういう理由(わけ)が背後にはあった。もちろん家宰は、そのようなことを書簡にしたためてはいない。
 徐云は、諜者のようなことをする羽目となった自分のことを、伏せておきたかったわけで――それを知れば明璇が心配し動揺する…――、その想いがわずかながら表情(かお)に出たのを明璇に捉えられた、というわけだった。

「…――今日のところはご挨拶にあがりましたまで。また日を改めましてお訪ねします」
 徐云は容を正すともう一度揖礼をして、明璇の前から下がった。
 それに、まるで取り残されたことを不服に思うような表情となった明璇だったが、けっきょく言葉を飲み込むと、礼容を正して徐云と張暉とを見送った。
「いいんですか、ちゃんとお話ししなくて」
 こちらのやり取りをしっかりと観察し(みやっ)ていたのだろう、張暉が小憎らしいほどしれっとした様子で尋ねてきた。
 ぺしっとその頭を叩き、徐云はそっけなく肩をすくめた。当初、簡孟姚へのご挨拶など()()()()に済ませてしまえというのは、張暉だったはずだ。
「いいんだよ。このようなこと、外の方に申し上げる話じゃない」
「けどあのお方は、(シュイ)(ヅゥ)とお会いになれることに舞い上がってらっしゃるじゃないですか。可愛いですね。それなのに黙っているなんて、僕は感心しないなあ」
「うるさいぞ、(ヂャン)(フゥイ)
 頭ごなしに叱られた張暉は、つまらなそうにそっぽを向き、やれやれと呟いた。
 徐云としては明璇の心身が安らかであることが第一なのである。自分が宮中の争いに(わずかばかりとはいえ)参じることが藪を突き、結果、(ジェン)氏に迷惑が及ぶことはあってはならない。だからこそ、明璇にはこの話はしたくないのだ。
 そんな浮かぬ表情(かお)の徐云を、張暉は遠慮なく言い叩いた。
「隠したってすぐに気づかれちゃうんじゃないですか? なかなか勘の鋭いお方のようですから」
 だがもともと年少者としての遠慮など気遣いだのとは無縁な張暉の言だけに、徐云は、もうそれ以上応ずることはせず、離宮の門を出るまで、(つい)に黙ったままだった。
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