第19話
文字数 1,864文字
何捷は、いったん声に出して応諾した上は、もう迷わずに雅雯の卓の前へと膝を進めている。
徐云は、心のうちで長嘆息しつつ、何捷に倣って膝を進めて卓の上の杯を手に取った。
雅雯は、ふたりから差し出された杯それぞれに、優雅な所作で柄杓を使い、甕の清んだ液体を注ぐ。
液体は無色透明で、微かに甘く華やいだ香りがしたが、酒気をほとんど感じなかった。
あれ? と思ったときには、王孫航は軽く掲げた杯を口許へ運んでいた。徐云も何捷も、遅れてならじと杯を呷る。
口の中に清涼感が広がり、すぐあとにほのかな甘さとを感じた。はじめての味わいだった。
これは美味い……けど…――、
まったくといっていいほど、酒気を感じない……。
徐云はふいと隣の何捷を向き、彼も同じような面持ちでいるのを確かめた。拍子抜けしたふうな表情をしている。
そんなふたりに顔をほころばせた王孫航は、典雅な動作で腰をあげて言った。
「さすがにそれがしも、昼日中から、使いで訪れた書生に酒を奨めたりせぬ」
「――水でございますよ。涼気は溶かしこんだ桃の果汁ですわ」
甕を示しながらあとを言継いだ雅雯の声音は、鈴の音が転がるようだった。
ああ、というふうになった徐云と何捷の表情の変化に目を細め、雅雯は、つと、得意げな微笑の顔になって王孫航を向いた。
「この博奕(賭けごと勝負)は、わたくしの勝ちでしたわね、逸さま」
博奕? と、ふたりの表情がまた怪訝となるなか、〝逸さま〟こと王孫仲逸は、参ったというふうに雅雯に苦笑して返した。
「小何は侮られることを嫌う質ゆえ杯を受けると踏んだまではよかったが……、
阿除は分別がさきに立つと思うたのだがなぁ」
酒に擬した杯を受けるかどうか、賭けの対象にされていたらしい。どうやら王孫航は〝何捷は受けるが徐云は辞する〟と踏み、雅雯は〝共に受ける〟に張ったらしい。
与り知らなかったこととはいえ、徐云は、なんだか王孫航に申し訳なくなって目を伏せた。
雅雯はそんな徐云に好意的な微笑を向け、王孫航にこう説いた。
「小何がお受けになれば、小除が受けられるのは必然です。小除は同輩を出し抜くようなこともしませんし、見限るようなこともしない人でしょう」
「然ても然り、か……」
王孫航は納得したという表情で頷き、ふたりに立つよう促した。
さて、このようなときには〝おとなしい〟何捷ではない。徐云のようにすぐ立つことはしなかった。硬くなった顔を伏し、視線は上げずに、ゆっくりとした動きで身を起こしたのだった。
それでも、少し前の何捷であったなら、あからさまに不快の念を顕わにしたろうし、ひょっとしたら王孫航の気慰みを指弾し始めたかもしれない。
そうなっていないのは、高偉瀚のもとで学んでいる〝礼節〟の奏効だろうか…――。
となりで学友を観察する羽目になった徐云は、何捷の不愉快さを想いつつも、それをあからさまに表情に出さぬようになった成長を感じとっていた。
とにかく、何捷は自分を抑えることを着実に学び始めたようだった。
と、そんな何捷の様子からなにかを察した様子となった王孫航は、改まった表情で言った。
「――何捷。それがしの戯れが過ぎたことを詫びたい。受け容れてくれようか」
それには目線を上げた何捷の顔を窺うや、王孫航は美しい所作で拱手をし、時揖の礼(三〇度のお辞儀)をしてみせた。こういう人の機微に通じるところが、同じく卿大夫に生まれついた〝貴人〟とはいえ、たとえば花浩やその取り巻きといった権門勢家の若君と違うところである。
逢の王室に正しく連なる血胤にそうまでされてしまえば、何捷とて意固地を通せるはずもなく、揖の礼を返して、師・高偉瀚より預かった冊簡を恭しく差し出したのだった。徐云も懐の冊簡を差し出した。
王孫航はそれらを受け取るや、いかにも無造作にひとつを開いて目を落とし、そして一拍の後、やはり無造作に閉じて言った。
「――さて、こちらの賭けはそれがしの勝ちと相成った」
聞けば高老師からこの『楽経』を借り受けられるかどうか、然る方と賭けていたのだという。これから賭け銭を受け取りにいくという王孫航の表情は、先ほどの真摯さからはほど遠く、軽薄そのものといった態である。
「……という訳で、それがしはこれで辞するとするが、勝報を届けてくれたそなたらはどうする? 雅雯と遊んでゆくか」
終にはそんなことを言い出す始末。それに「まぁ」と眦を吊り上げかけた雅雯が、気を取り直してふたりを向いて艶然と微笑む段となるや、ふたりは慌て、畏まって部屋を辞したのだった。
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