第62話
文字数 1,983文字
一刻も早く明璇の許に行かなければならない。
そのために自分は存在している、という自覚が徐云にはある。
不安げな表情を浮かべる麗雯の隣で、徐云は、ひとり思料を進めた。
自分一人ならば、迷うことなく許を出て陸路を行けばよい。馬を使えば五日で洛邑に辿り着けるだろう。馬を工面する銭は高偉瀚より持たされている。
だが此度の上洛は麗雯と一緒だった。さらにそのことは、翠雅雯より〝良しなに〟と依頼されていることでもある。
そもそも麗雯をこの「許」に放り出し、ひとり洛邑を目指す、ということは徐云にはできはしなかった。仮にそれを切り出したところで、彼女は承知しないだろう。
となれば、馬に乗れぬ女の足に合わせることになる。十日ほどは掛かるか。さて……。
奇妙に思えようが、このとき、徐云の明璇への想いと、麗雯との情は相容れぬものではない。
そもそも明璇は王淑公孫の家の女性。自分とは比べ物にならない高貴の生まれである。物心ついたときから常に傍におり、何を措いても第一に考えなければならない存在であるが、異性として見ていない。不遜を承知でいえば、勝気で手を焼かされる可愛い妹に近い――徐云はそういう理解で納得をしている。
麗雯は、初めての女性であった。愛おしい存在ではあったが、それでも彼女とのことはつまるところ私事であり、明璇との間柄は、敢えて言うならば、宿世よりの巡合なのであった。
さて、徐云としては一刻も早く明璇の許に駆け付けたい、という想いは強かったのだが、けっきょく、その後の四日間をここ「許」の客桟(=旅館)で過ごす事となった。やはり麗雯が、彼女を残して徐云だけが先に行くというのを、頑として拒んだからだ。
そうして我を押し通したい麗雯は、彼女なりに手を尽くし始めた。
先ずは、桃原へ引き返すという鄭の店の傭船の船方に掛け合ってみた。許から洛邑までは一日足らず。夜のうちにこっそりと許の船溜まりを出て、陽の上る直前までに出来る限り近付いた岸に下ろしてくれまいか、と頼んでみたのだ。
船方は、とんでもない! と一蹴した。どうやら戦となりそうなのに、そんなことをして見つかれば拿捕されて船を取り上げられてしまう。下手をすれば命も危うい。堅気の船方の判断は極めて良識あるものだった。
麗雯は他の船の船方にも当たってみたが、大きな船の船方に、そういう無茶をする者はいないようだった。麗雯は引き下がるより他なかった。
次に麗雯は、それならばと許の〝堅気でない〟連中の中から舟(小型のもの)を持つ者を募り、それを譲ってくれないかと交渉を始めた。もちろんその代価は、徐云の懐を当てにしてである。
この手は上手く行きかけた。相当ふっかけた代価を要求されたが、譲ってもいいという男が現れたのだ。……が、いったんまとまったはずの話は、その日のうちに反故となった。
その男が阿漕を働いたというわけではない。許に上ってきた兵が、船の徴発を始めたのである。徴発は徹底したもので、よほど有力な伝手を持つ船主の船でなければ、免れることはできなかった。
ふたたび〝振り出しに戻る〟ことになり、ここ迄で徐云は(結果としてだが)三日という時間を無為にしていた。洛水が封鎖されて二日目には早くも姿を現していた兵の旗は南方伯の使う赤い旗であり、事態は決して王淑――鷲申君の側に有利に推移してはいないことが察せられた。
――こんなところで愚図愚図してはいられない。
洛邑の離宮で心細い思いをしているだろう明璇を想うと、徐云は気が気でなかった。
そうして四日目――。
いよいよ陸路を行かねばならなくなったと腹を括り、馬と馬具の手配を思案し始めた徐云は、客桟(宿)の主人から、来訪者のあることを告げられた。
客桟の房前(軒先)に二台の馬車を連ねて乗り付けてきた客人は三十路あたりの女人で、部屋に通されるや、徐云にではなく麗雯を向いて口を開いた。
「鄭氏のお客人、翠麗雯であられますね」
「ええ。……あたしが翠麗雯だけど」
見知らぬ女に警戒した徐云が誰何の声を上げるよりも早く、麗雯は応えてしまっていた。
(…………。明璇といい麗雯といい、どうして僕の周りの女性は、なんでも先手を取りたがるんだろう)
少しばかり慍となって徐云が口を噤むと、客人は麗雯を向いて正しく揖礼をした。それから黙っている徐云にも揖をする。どうやら徐云のことを従僕と見たようである。
「ご怪訝なく。わたくしは洛邑の賈人、祥逸の遣いで参いりました。丁少琪と申します……」
祥逸の名は、洛邑と桃原を行き来する徐云にはわかる。逢の王室・王府とも取引を持つ大座賈だったはずだ。その大賈の遣いが、どうして旅先の麗雯を訪ねてきたのだろう。
そんな徐云の疑問は、続く丁少琪の言で解消された。
「――主人からは〝何捷の友人〟と伝えればわかる、と送り出されてございます」
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