第48話
文字数 1,821文字
「なにやら捉えどころのない人物ですね」
花子瀚は、鄭承の語った流亜卿――公車司馬令・流次倩の人物評に、眉を顰めながらそう応じた。境丘の学派に学び、また、逢建国の元勲たる武成尤を祖とする名族・嬰姓花氏に生まれた子瀚にとり、この話は、いかにもあざといと感じる。
そもそも天下に才を轟かせたいと考えるのならば、境丘の門をこそ叩くべきであると、子瀚のようなものは考える。境丘学派の総帥たる章弦君・鷲申君の政敵たる太傅・昌公緩の側の人間に、子瀚は好感を持ちようがない。
そんな子瀚に、鄭承は柔らかい笑みで応えた。
「おそらく根は悪い人ではないのでしょう。……ですが、流亜卿の生き方は、なんというか、人生は博奕とでも思っているかのような――」
そうして、子瀚の、まだ得心がいったわけではない、という顔に頷いてみせ、ふと付け加える。「周囲の人間を巻き込んでね。……そのような生き方が、何子の望むものとは思えないのです」
それで子瀚は、やはり鄭承が、流邸から出てきた若い官吏が何捷に相違ないと理解しており、彼の者の前途を真面目に案じているということを、今さらながらに知った。
さて、そうすると、なぜ弱冠(加冠の前年の年齢。十九歳)にも届かぬ何捷が、官吏となって洛邑に居るのか、との疑問が残るが…――。
だが子瀚は、もうこれ以上の詮索を止めることになる。もう大路を官衙と鄭邸とに分かれる辻まで来ていた。
何捷のことは鄭承の間違いであろうということにし、馬上で鄭承に拝辞をすると、子瀚は官衙のある方へと馬首を巡らせた。すると木枯らしが朽葉を吹き上げながら、大路を駆け抜けていった。
ふと、それまで馬を並べた大路を見遣ると、風に押されたのか、先の流民の女の頭が、隣の男に寄り添うように、かくり、と落ちた。
明くる年(頃王の十七年)の七月――。
夜回りの衛士の鳴らす武具の音に眠りを破られ、徐云は重い瞼を開いた。無意識に寝台をまさぐった手は、薄い麻布の感触だけを告げてきた。
麗雯がとっくに出て行ったろうことは、薄々承知していた。それを確認したことに、落胆よりもなぜか安堵を覚えながら、徐云は寝台から物憂く起き上がった。
手探りで明けた窓の外はまだ夜の昏さの中にあって、夜明けの近さを肌に感じる。
ともに牀(=寝台)の上に倒れ込んだ麗雯は、自分が前後不覚に寝入っている間に起き出し、鄭邸に帰ったのに違いない。どれだけ晩い刻限になろうと、彼女が桃原に来た際に使っている南宮唐の邸の西廂房に泊まることは皆無だった。
禁じられているにもかかわらず、衛士の目を盗んで深夜の市中を往来する図太さは、妓女あがりとしか言いようがない。
だがそんな破天荒も猫のような気まぐれも、麗雯とひとたび言葉を交わせば、あっさりと納得ができる。
(つぎ逢えるのはひと月後か……)
麗雯が徐云の部屋に忍んで来るのは、月に一度程度、徐云が桃原に留まる三日乃至五日のうちの一夜である。
彼女と肉体の関わりが出来たのは、高偉瀚と南宮唐との使いで洛邑と桃原を往復し始めた、先の夏のことだった。桃原に赴く度に鄭邸を訪れれば自然と顔を合わすこととなり、そうしてどちらからともなく、ずるずるとそうなってしまっていた。
いや、桃原に赴く度にわざわざ鄭邸を訪れるのは、結局は自分の意志だ……。
だがそんな仲になってふと気づけば、会う日も会う場所も、すべてことを決めるのは麗雯で、徐云は常に唯々諾々と、彼女に従うしかなかった。
彼女と夜を過ごす男が自分一人でないことは、薄々気付いている。自分が彼女を選んだのではなく、彼女が自分を選んだのだ。それでも彼女を失う恐ろしさに、徐云は他の男の影から、意気地なく目を逸らしている。
夜明け前はもっとも冷え込む。徐云は麗雯の温もりの欠片もない牀に寝転がり、真っ暗な天井にじっと目を凝らす。
ふと何捷の顔が浮かんできた。
彼は、旧主の裔である麗雯――彼にとっては〝崔嬴(嬴姓の崔氏の女の意)〟――と自分がこのような関係となっていることを知ったら、どんな表情をするだろうか。その想像は徐云に先の見えぬ不安のなかに、ほんのわずかの愉快さをもたらした。
(それに高老師や南宮老師、蕭子に知れたら、なんと弁明しよう……)
彼らの顔が眼裏に明滅する。皆は自分を、冠礼前にもかかわらず女に魅せられて堕落した愚か者と見るだろうか。
知らず、溜息が漏れた。
この年、徐云は弱冠(十九歳)となっている。
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