第30話

文字数 1,863文字


 (シュイ)(ユィン)(ホー)(ジェ)が、師の(ガオ)偉瀚(ウェイハン)から(ツゥイ)雅雯(ィアウェン)のふたりの侍女の手習いを見るよう言付かったのは、輿入れの日から数えて翌々日の次の夜のことだった。
 なぜ自分たちが女学問の手伝いを、と戸惑うふたりに、師はただ「まあ、何ごとも経験だから」と送り出したのだった。後から冷静になってみれば、門下の学徒の中でもっとも若輩だったのが徐云と何捷であった、というだけのことだったのだろう。
 ともかく徐云と何捷は、翌日以降、三日に一度、正午前に鄭邸に通うこととなった。
 さて、何捷はこの役目に見るからに不満たらたらといった(てい)であったが、徐云の方は、小麗(シャオリー)に会えることに心踊っていた。

 夜が明けて(ヂォン)氏の邸を訪ね、教場に供された廂房(しようぼう)に入ったときに、はじめてふたりは生徒がふたりの侍女だけではないことを知った。なるほど雅雯は、これをよい機会とばかり、鄭氏の邸と店で使う者すべてに手習い(読書き)と簡単な算木の使い方を教えることにしたらしかった。
 まあ()()はともかく、教場で互いに紹介し合い挨拶を済ませたときに、雅雯の侍女のうちのひとりが〝小麗(シャオリー)〟であったことを確かめることができた。もっとも、いまは(ツゥイ) ()麗雯(リーウェン)というのだという。そのように、いまひとりの侍女・(ツゥイ) ()鈺雯(ユーウェン)ともども紹介された。
 徐云は、自分のことを憶えていないだろうか、などと思いながら時折り小麗(シャオリー)――いまは麗雯(リーウェン)の顔を盗み見たりしたのだったが、結局、麗雯がその期待に応えてくれることはなく、この日の教場では、師範に対する()以上の親密さが麗雯の顔に浮かぶことはなかった。

 そうして教場での初日をどうにか終えた徐云と何捷は、いまは鄭邸の女主となった雅雯から、(ねぎら)いと、生徒のことを〝くれぐれも()()()に〟との丁寧な言葉をいただき廂房を辞した。
 屏門(へいもん)(内庭と外庭を仕切る門)を出て影壁(えいへき)(外部からの目隠しの壁)の前まで来たとき、あ、と徐云は足を止めた。
 そこに麗雯がひとりで立っていた。

「あら、やっと来た。あたしのこと、忘れたんじゃないでしょうね、……(シュイ)(ユィン)
 教場での澄まし顔と違って、(てら)いのない顔が、待ちくたびれちゃった、というふうに首を傾げてきた。
「……ひょっとして、待っていたの?」
 麗雯の口から出た自分の名に、はっ、となった徐云が、怖ず怖ずという態になって訊くと、麗雯(リーウェン)は肯きながら応じた。
「稽古中は話せないでしょ。(ィア)大姐(ねえさん)体面(かお)はつぶせないわ」
 それで麗雯が、案外に雅雯に(なつ)いていることがわかる。考えてみれば、名の中に同じ〝(ウェン)〟の文字を分け合っているのだから、その結びつきは強いのだった。
 それはおき、いま徐云は小麗(シャオリー)が自分のこと()名前を憶えてくれていたことに、なにか飛び立つような喜びを感じている。
 だが、さしあたり何を話せばよいかと、徐云は、青翠院でみたものとは違う落ち着いた色調の襦裙(じゅくん)を纏った麗雯を凝視するばかりである。
 すると、その徐云の傍らから、
「いまはいいのか?」
 と何捷が、何の感慨もない声音で質した。麗雯には〝油を売っていてよいのか〟と、徐云には〝用がなければ早く行くぞ〟という、愛想のない対応である。
 麗雯は、そんな何捷は半ば無視するように視線を向けず、まっすぐに徐云の目を見て言った。
「時間はあるの。…――もう妓女じゃないわ」
 その目許と言葉に乗った艶に、徐云はやはりどぎまぎとしてしまう。麗雯はそれを見てふたりを表門の方へと促した。
「少し外を歩きましょ。途中まで一緒に」


 鄭邸の表門を出て条の大路をいく道すがら、三人は並んで歩き、徐云は麗雯の口からこの一年余りのことを聞いた。
 去年、ちょうど徐云らと青翠院で出会ったころに、小麗は翠雅雯の目に留まり、香を焚いて(※)〝香火姉妹〟になったという。雅雯の輿入れの際、侍女としていっしょに鄭邸に入った鈺雯は、そのとき一緒に契りを交わした妹だそうだ。〝麗雯(リーウェン)〟〝鈺雯(ユーウェン)〟の名は、姉妹になったときに自分たちで付けた。
(※ 妓女同士で香を焚き、姉妹になることを誓い合う習慣があった)

 そういえばね……と、
 雅雯から「あなたたちふたりは、妓楼で生きていくのには向いてないわ」と言われたことをいま不思議がる麗雯に、彼女はともかく、鈺雯という妹の方はそうだろうと、徐云も何捷も納得している。鈺雯はとても線の細い、何ごとにもおどおどとしている、そういう娘だった。
 麗雯については、あの春の境丘の辻で処士の不興を買ったように、あれこれと騒ぎの渦中にありそうだ、という意味で〝向いていない〟のだろうと、ふたりそれぞれに思ったものの、何捷でさえ、それを口に出すのは(はばか)ったのだった。
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