第58話

文字数 1,976文字


 早朝の冷気の中の(シャオ)尊寶(スンバォ)は、話の成り行きに絶句した(ヂャン)(フゥイ)ではなく、自分に言い聞かせるように呟いた。
「そもそも宰輔( )(ツァィ)才俊(ツァィヂィン))は太師に何の恩義もなく、ただ信念をもって国の(もとい)を〝変え〟ようとなさっておられる。たいしたものです。だが、わたしや(リャオ)(シェン)は違う……」

 尊寶の脳裏には、天官での、この一年半余りのことが思い起されていた。
 天官で起草する科条( )(法令)の中でもまた朝堂においても、蔡才俊という人物は、常に国の機構そのものを強くすることが、国を富ませる第一の手段であると説いていた。そこには徹底した官僚主義があり、王や卿大夫の資質や一時の感情によって(まつりごと)を左右させまいという、法を()()戴く国家主義像があった。
 蔡才俊の祖父・(ヨン)は、その目で故国たる蔡の滅亡を見た。
 国を富ませ、平穏を為す――それは国を失った詠の、自戒を込めた夢であったのだろう。
蔡才俊が彼の志を継ぎ、すべてを犠牲にしようとも再び天下を統一し、海内に安定した世を出現させねばと思い定めたのは必然であったか。
 蔡才俊のそんな思想に、尊寶も惹かれた。この手で国を富ませ、世の矛盾を除き、変えたいと願った。変えられるのではと夢を見た。
 一方で、そんな宰輔の進め方と対立しているとはいえ、太師の英邁さも尊寶は信じていた。
 理を通し、情も交えればわかり合える。少なくとも、互いに妥協の成るところは見出せよう。彼には八百諸侯の先頭に立って、共に成した〝変法〟を見届けてもらいたいと、そう想っていた。なんといっても、境丘の学匠たる自分は、太師・鷲申君には大恩がある。
 境丘の同門で、天官府で共に国の在り様を語り合った廖沈も、そうであったのではないか……。
 だが廖沈は、どうやら最初から鷲申君を見捨てる腹積もりだった。
 共に境丘に学んだ廖沈が、己が栄達のために恩のある鷲申君を裏切り、その境丘の学匠・学徒らすら切り捨てようとしたとき、尊寶の胸には激しい憤怒の情が込み上げた。
 事ここに至れば、世の仕組みの何が変わろうとどうでもいい。それでもたった一つ、失いたくない場所が自分にはある。そのことを、尊寶は真っ赤な怒りの中ではじめて自覚した。
 ――待て振瑞(ヂェンルイ)。このような形で事が露見すれば、境丘の学堂は、その存続すら危うくなる。
 天官府の一室で昌公邸に駆け込む用意を整えていた廖沈は、そう言い募る尊寶を〝何を今さら〟という目で見返した。尊寶の苦悩の浮かんだ顔とは対照的に、廖沈の顔には皮肉な笑みすら浮かんでいた。
 ――いまの境丘に如何(いか)ほどの存在の価値があろう。仁だの義だのと、所詮は便法にすぎぬことを振り回すばかり。二言目には徳治を云うが、そんなものを実践してみせた賢君がいたろうか? でなければ、わたしやおまえの才能を(くす)ぶらせるままということはあるまい。
 ――振瑞……きさま、境丘に……〝百家の争鳴〟に、意味はなかったというのか?
 ――ああ。あのような茶番を幾ら重ねても国家は一歩たりと進まぬよ。新たな世に聴くべき声は〝法〟これ(ただ)一つでよい。……まぁ、それも(すた)れれば、また新たな〝()(しろ)〟を見つけてくればよい、それだけのことだ。
 その言葉を耳にした途端、尊寶の中で何かが決壊した。気が付いたときには、血まみれの剣を握りしめ、天官の同僚らの静止を振り切って天官府を飛び出していた。
 外廷の厩舎から数頭の馬を引き出すと、剣背で打って路門へと放った。それで人の目を街中へと駆け去る馬に向けさせると、あとは陽が暮れてから逃げ出そうと、一先ず外廷の(はずれ)の大蔵の中に身を潜めていたところを(ホー)(ジェ)に見つかり、彼の機転で脱出してきたのだ。
 鷲申君が過ちを犯したことは頭では理解できていた。ただ、それを告発して栄達を図ろうという廖沈は不忠であったし、彼がそうすることで、境丘が窮地に陥るのを見過ごすことは、どうしてもできなかった。

「わたしは、自分がこれほど猪武者だったとは、思ってもいませんでしたよ」
 動き出した時勢はもはや止められない。そんなことは(わか)っていても、廖沈が(ごと)き小人を刺し、時代に抵抗を試みた。本当に愚かなことだ。だが…――。

 言って自嘲を浮かべる尊寶に、南宮唐は頷いた。
「ともかく、その血を洗い流して中に――」
「――いえ」 差し伸べられた手を、尊寶は遮った。「長居をするつもりはないのです。ここにわたしが居れば、それは学派にとって禍根となります。そんなことは望まない。わたしがここへ寄ったのは、老師に伝言を頼みたかったからです」
「伝言だと……」
 訊き返した南宮唐に、尊寶の蒼白な顔が応じた。
大慶(ダーチィ)に……(ホン)(ヂィー)に伝え願いたい。〝約束を果たすことは出来そうにない。すまない〟と」
「その約束とは」
「それで伝わります」
 それだけ言い終えた蕭尊寶は、もうあとは何も言わずに、引き止めようという南宮唐と張暉を振り切って邸を立ち去ったのだった。
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