第56話(終章)

文字数 2,035文字

 晩秋の、冷たい(もや)が地に低く(よど)む朝……。
 この日――すなわち、頃王の十七年の九月十一日。逢の太師・鷲申君の意を受けた衛尉丞( )(衛士を統率する衛尉府の次官)・(ジゥ)(スー)が、六百の兵を率いて宮城を囲んだ。
 揪司とその佐将である(ポン)(ビン)は、(かね)て気脈を通じてあった小臣( )(宮城内の兵を掌る武官)・衛士令( )(宮城門を守衛する官)らを取り込み、太傅派に回った衛尉の属官を排除して衛尉府を太師の都督畿内三監四関諸兵事の兵権の下に服させるべく宮城内に押し入った。
 その所業の企図するところが、天子の玉体の確保であろうことは明らかであった。

 だが、そんな目論見に敢然と立ち(ふさ)がる者がある。司馬門の公車令・(リィゥ)(マン)である。
 流満は、司馬門で兵車から降りた揪司を出迎えると見せて、これを一刀のもとに斬り伏せてしまった。そうして後は門を閉じると、ここは一歩も通さじと、城壁の上に弩を並べて守りを固めたのである。他の宮城門も同様であった。それぞれに門扉を固く閉ざし、城壁には赤い旗を掲げたのだった。――…赤い旗は〝南方伯〟の使う軍旗である。
 じつはもうこのときには、太師方に付いていた小臣・衛士令らは、流満直属の衛士と彼の養う無頼・武侠の徒、合せて二百名余りの兵に機先を制され、ことごとく捕縛されていたのだった。
 天子の玉体を確保した流満は、衛尉府の衛士と、大僕の下にある小臣とを掌握し、事実上、宮城の守りを主導する立場となっている。

 一方、主将・揪司を眼前で討たれた彭彬だったが、六百の手勢を宮城に(けしか)けることはさすがに躊躇った。宮城に向け弓引けば、それはすなわち天子への明確な叛意ということになってしまう。
 が、流満の方には、そのような躊躇は微塵もなかった……。
 彼は彭彬の苦しい立場を理解した上で、城壁の上から弩を放つよう命じた。
 彭彬は、目の前で始まった一方的な虐殺に感情を抑制することが出来ず、終に反撃を命じてしまう。結果、ここに激しい戦闘が勃発した。
 太師は、事の初めから(つまず)くこととなった。

 この戦いは半刻(はんとき)(一時間)ほどで、鷲申君が彭彬に兵を引かせたことで終わった。
 そうして事態を把握した鷲申君は、彭彬の手勢と合流すると、ひとまず洛邑の市中で戦うことを避け、そのまま一族与党を引き連れて王都の東郭( )(都邑の東側に付随する街)、亀城に入った。亀城は洛水に面し、河川(かわ)を上れば自らの采邑・鷲申へも容易に連絡する。鷲申君としては此処(ここ)から失地回復を期するよりほかはない。
 宮城・司馬門で繰り広げられたこの戦いによって、王都の民の恐怖は頂点に達した。あっという間に「鷲申君、謀叛(むほん)す」の報が洛中を駆け巡る。やがてそれは、幾らも経たず、畿内諸国に広まってゆくだろう。
 流満の手並で窮地を脱した頃王は、すぐさま鷲申君の官位・官職を奪う勅を発すると、あらためて流満を都督畿内三監四関諸兵事に就け、函谷関・大散関・蕭関・武関の四関を封鎖させた。
 無位無官となった鷲申君は、これ以後、本姓と諱の名乗りに従い、(イャォ)(ファ)と史書に記されることとなる。


 外廷に立ち並ぶ官衙は、月の明かりに照らされ、静寂の中に淡い影を落としていた。
 いまは(ファン)(クゥァ)こと(ホー)(ジェ)は、思いの外に明るい月の光に小さく舌打ちして、広い内院( )(内庭)を見渡して様子を窺った。
 辺りに人の気配はない。稀に聞こえてくる、衛士らの鳴らす武具の音も、いまは遠い。
 何捷は、背後に潜ませていた人影を振り見やると、小さく肯いて合図した。
 官衙の影の(とばり)から、幽鬼のような人影が進み出てきた。
 その長身の男は(シャオ)尊寶(スンバォ)だった。
 血で汚れた深衣の袖は破れ、どこに落としてきたのか冠も(さく)(頭巾)も被っていない。
 ひどい(なり)だった。
 いきなり外廷(ここ)で鉢合わせた彼の口から聞いたわけではなかったが、ここで何を目論み、何をしたか、その姿から察することはできる。即座にこの場から逃がすことを決めた何捷は、何も言わずに、路門の見える内院まで彼を先導してきたのだった。
 何捷は思案顔となった。
 さて、このような風体(ふうてい)の尊寶を、太傅派が掌握した宮城の外廷から逃がさねばならない……。幸い付近に衛士の気配はない。あとは路門の門殿と門前とに配されている二乃至(ないし)の伍( )(伍は兵五人)だけだ。門前の伍は何とか出来よう。門殿の伍については降りてくるまでに時間がかかる。その間に門を抜け、夜闇に紛れて逃げ(おお)せてもらうしかない。
 そこまで算段を進めると、何捷は尊寶をもう一度見上げて頷いた。
 それから腰の剣を抜き、自分の二の腕に刃を当てるとそれを引いた。袖に血が拡がる。そうして何捷は、外廷の内院に飛び出し、路門の門前の衛士らに聞こえるように大声を出した。「――誰かある! 誰かっ……曲者(くせもの)だっ」 言うや、尊寶から離れるようにして門前の衛士らを待つ。
「こっちだ! 賊は独りじゃないぞ――」
 駆けつけてきた彼らを先導して、何捷は尊寶のために門前から衛士を遠ざけた。

 そうして虎口を脱した尊寶は、黎明に風の吹く頃、南宮(ナンゴン)(タン)の邸に辿り着いたのだった。
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