第26話
文字数 1,533文字
その野生めいた顔を見たとたんに、徐云の脳裏に、青翠院の内院の中庭で聴いた、同じ年齢くらいの女の、わずかに媚を含んだ声がよみがえった。
〝徐云……〟と。
すると、あのときに心中に感じた、この娘と話をしたい、という衝動が、みるみると鮮やかによみがえってきたのだった。
徐云の足は辻を折れず、輿の列に付き従うように、人の出を挿んで大路の端を進んでいた。
人出の先に輿の列を見ながら、ゆっくりとした歩調になった徐云は、女の名を思い起こしていた。
確か小麗と言った……。
鄭氏の新婦となった雅雯の輿行列に侍しているということは、彼女もいっしょに身請けされ新婦の付き女として従ってきたのか。とすれば、小麗の他にももうひとりいるのだから、家主の鄭承の財力が途方もないことがわかる。
鄭承の店では、先年の不作の折には、蔵の五穀の放出もしていた。財を成し徳をも積む。たいしたものだと感心しきりの徐云に、
「おや、徐云じゃないか」
と、肩を叩く男がいた。
振り見遣れば、少年の面影を残した坊ちゃん顔が、涼しげな眼を笑わせていた。
「これは花子瀚子。お久しぶりです」
「おいおい、子瀚子はよしてくれよ。君と僕の仲じゃないか」
役所の帰り道なのか、濃い藍染の色の深衣姿の花浩は、低頭する徐云を苦笑いして制した。
花浩はこの年(頃王の十五年)の春(二月)に加冠され、〝子瀚〟という字をもらっていた。晴れて冠礼を終え頭上に冠を乗せた現在は、王淑の官庁に出仕している。たしか与えられた官職は「賈師」――市中における物品の価格を監督査察する役だったはずである。むろん、建国の功臣・武成尤の後裔という家名のおかげなのは言うまでもない。
ともあれ、花浩はこれまで通りに親し気で、
「本当に久しぶりだね。さすがの堅物の徐云も、名だたる翠雅雯の輿入れには興味があったというわけか」
そういって目を細められたりすると、徐云は、なぜか明璇の不機嫌そうな眦に一瞥されたように感じて、小さく肩を窄めることとなった。
「あ、いえ……」
そんな徐云の胸中を知らぬ花浩は、笑みを絶やさぬまま言葉を続けた。
「高老師は最近どうしておられる。皆に変わりはあったかい」
「いいえ。これと言ってなにも」
このまま立ち話となりそうなことに徐云は内心で嘆息したが、花浩はおかまいなしだった。
「ところで君は、まだ南宮唐のような墨者のところに出入りしているのかい」
「……はい」
章弦君の客人である学匠を見縊ったその物言いに、徐云は慎重になって応じた。
「南宮老師から墨の教えを、洪子から〝射〟と〝御〟(弓術と馬術)、それに剣術と兵法を、蕭子から遊説術を学んでおります」
「ふん」
案の定、花浩はそれに鼻を鳴らしてみせた。
「あまり感心しないな。墨の教えは知っておくのはよいとして、洪大慶の兵法とやらは礼にも美しさにも欠ける蛮夷の弊風の模倣でしかないし、蕭尊寶の遊説術の如きは、礼儀を知らぬ者の巧言でしかなく、全く浅薄なものさ。君のような先のある人材が、そんな者たちと関わるべきじゃないと思うね。簡孟姚(簡明璇)の名折れとなるよ」
不快さを隠そうともしない花浩に、徐云は、〝やはりそれか〟と、先の高偉瀚の邸での境丘学派の集いにおける蕭尊寶と花子瀚との衝突のことを思った。
それはこういうことである――
「塙」の執政を補佐する卿士・車目が桃原に章弦君を訪ねた際、名高い境丘学派の百家争鳴を参観したいと要望した。章弦君は快く応じ、境丘の学匠らを学長格である高偉瀚の邸に招集した。議題は〝北方の「原」の動静とその対応〟である。
その場には、車氏とは同祖、嬰姓の出自の学徒ということで章弦君とともに客人を案内する花子瀚がおり、いっぽう、境丘一門の末席に蕭尊寶がいた。
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