第44話

文字数 1,740文字


 港邑の入り組んだ胡同(こどう)(=路地)をいくつも抜けて、北側に一本、( )(町を東西に走る大路)を移ると、男はようやく歩みを緩めた。そのときには、もう警吏の声は遠のいていた。
 ここで(ホー)(ジェ)は、旅装と賭け金に使った路銀の大部分を賭博場に置いてきてしまったことに気付いた。これで手許の私物は、着ている(ふく)と家伝の剣だけとなったわけである。
 だが、いまさらどうすることもできない。剣が残ってくれたことで〝(よし)〟とすべきであった。
 溜息を飲んだ何捷は、前を行く男の背中をあらためて観察した。
 男は素衣・素裳・素冠だった。その肩幅は広く、上背もかなりある。……(ホン)大慶(ダーチィ)と同じくらいか。少なくとも(シャオ)尊寶(スンバォ)より低いということはなさそうだ。そう何捷はみた。
 ふたりは現在(いま)、どうしているだろう……。

 いきなり、その大柄の背が振り返って、こちらを向いて言った。
「――おまえ、ええ度胸してるなぁ。あの賭博場でイカサマを騒ぎ立てるなんて、ふつうやれへんぞ」
 沿海(なまり)の人懐こい声色の主は、(黙ってさえいれば)まぁなんとか美丈夫といえる相貌であった。尊寶のような冷たさを感じさせぬ分、この男の方を好ましいと思う者も多いかも知れない。が、しかし、何捷はそのようなことを忖度しない。ただ、派手な男だ、との印象だけを持った。……少し大慶に似ている、とも思った。
 もっとも、大慶ほどに深みのようなものを感じなかったのも事実だった。――このときの何捷は上手く言葉にすることができなかったが、南宮(ナンゴン)(タン)あたりなら「生き方に〝見映えほど〟の奥行きはなく、その〝実〟は軽佻浮薄」とでも評したろう。

 そういう印象を得た何捷は、見返したものの、そもそもの関わり合いの顛末(てんまつ)もあって、ここは深入りせぬ方がよい、との警戒の念を解けなかったのだが、それでも助けてもらったことの礼は述べなければと威儀を正そうとした。
 すると目の前の男――(リィゥ)次倩(ツーチィェン)は、
「――いや、礼には及ばんわ。()()もあれで助かったのやし」
 と、笑って遮った。それで再び怪訝となった何捷に、懐から銭入れを出して〝ほれ〟と放った。それは何捷の銭入れだった。
「ほいで――」 さらに、もう一度懐に手を()る。「――…こっちが()()のや」
 引き出して見せた二つ目の銭入れは、何捷のものよりもまだ重そうだった。
「こいつを取り戻すのに、おまえのあの騒ぎが援けになりよった」
 言って笑うと、次倩は銭入れを懐に戻した。
「負けがチャラになりよったし、一杯献じよう。いっしょに来ぃや。…――ああ、()()(リィゥ)や、次倩(ツーチィェン)と呼んでくれ」
 語り口に愛嬌があり、何捷のような者にも〝親しみやすい〟のは確かなようだった。


 そうして何捷は、許の市中の、菜館を兼ねたような酒肆(しゅし)(=安酒場)に、次倩に連れられて入った。
 そこで次倩は、口の重い何捷に辛抱強くあたり、桃原から来たこと、境丘で学んでいたことなどを語らせ、そして(つい)には逢の宰輔(さいほ)(ツァィ)才俊(ツァィヂィン)の名を引き出したのだった。
 冠礼前の何捷の口から、洛邑に蔡宰輔を訪ね、あわよくばその客人に収まれないだろうか、などという望みを聞くや、次倩は半ば呆れ半ば感じ入ったように目を見開き、それから笑みを浮かべた。
 やはり莫迦にされたかと、気分を害したふうの何捷に、次倩はこう持ちかけてきた。

 自分は「杞」から来た(リィゥ)(マン)という。次倩(ツーチィェン)は字だ。
 見ての通り、大夫の家に生まれた者だが、故あって国を出て諸国を巡っている。じつは侍人をひとり連れていたのだが、彼は病に斃れてしまった。自分の過所(かしょ)(=旅券)には、その侍人の記載が残っている。
 どうだろう、その侍人に〝成りすまし〟て洛邑に行く、というのは?

 ――どこまで本当の話だか……。
 さすがにこれは〝出来すぎ〟だ、と、警戒せざるを得ない。

 だが、何捷は、結局その話に乗った。
 どの道、洛邑に入るのに他の手立てがなかったからだ。
 話を進めるにあたり、一つだけ〝問題〟があった。その侍人に関する過所の記載が、加冠を終えた成人となっていたことだった。
 それについて次倩は、年齢(とし)など詐称してしまえばよいと一笑に付した。


 それでいま白河の船上の何捷は、頭上に素冠を乗せ、〝二十一歳の(ファン) ()(シィァン)〟ということになっている。
 すでに季節は春で、年は改まり、頃王の治世は十六年目を迎えていた。
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