第67話(終章)
文字数 1,956文字
洛邑に入り何捷と再会した徐云は、その夜のうちに反目することとなった。
境丘に学んだ者としての学派に臨むその在り様と、強権的に変法を推進する王府に対する処方…――。
共に境丘の学匠を束ねる長・高偉瀚の下で机を並べたふたりは、この一年余りという時間を経て、互いに相手の中に見ていた理解というものが実は同じものではなかった、という現実に直面することとなった。
天官の吏である何捷はもとより、徐云もまた変法の必要性は是認していた。
六百有余年続いた逢の世だが、これを樹に喩えるならば、すでに根は弱り、幹の内側は朽ちて洞となっているといってよい。この大樹の命脈を保つには、なにか新しい手当てが必要である。それに異論はない。
問題は、その〝手当て〟の基に何を置くか、だった。
徐云は、政治とは人の営みであると捉えている。
そうである以上、人を導くのは人であるべきと信じていた。人が人を信じられぬのであれば、彼にとっての世は成り立たない。
何捷もまた政治とは人の営みと捉えている。
違うのは、政治とは、その営みの〝過程〟ではなく〝結果〟であると捉えていることだ。何捷は、人が人を信じるということと、政治の善し悪しを論じることは、それぞれ別のものと分けて考えていた。
どのような善意からの発議であろうとも、すべての施策が成果を伴うとは限らないし、そもそもその成果の理非すら、立場によって異なってくる。それでも〝最大多数のための成果〟を示せないのであればそれは過ちであり、過ちを過ちとして認められなければ、政道は糺されない。
然るに、人は〝人を信じたい〟ばかりに、ときとして過ちに目を瞑る。それは人という存在が弱いからだ。その人の弱さを糺すには、人を超える何か――神事神託と異なり、手に取って確かめることのできる何か――に倣うより他になかろう。だとすれば、いまの世においてのそれは「法」くらいである。
何捷が変法を支持する理由がそれであった。……が、その何捷にしたところで、人が人を信じることの意味までを否定してはいない。
そもそも、求める世の在り様はふたりともが同じだった。人が人として生き、理不尽に踏み躙られることのない世、である。
にも拘わらず、その実現の処方で、ふたりは確然と反目することとなった。
今日この夜のこの反目は、いったいどのような影を、これからのふたりの歩みに及ぼすのだろうか……。
気拙い空気となった廂房の一間を辞した徐云は、用意された部屋の牀(寝台)の上に横になり冷静になると、漠然とそのようなことを思いつつ、一夜を明かしたのだった。
そんな夜より八日余りが過ぎた、十月五日の早朝――。
その朝、黄旗のはためく亀城の城門の門楼では、前太師・姚華の手下の者らが、東から昇りつつある黎明(=明け方)の光が照らす南の空を流れる雲の下に二色の軍旗を押し立てて迫りつつある師旅(=軍勢)の姿を、固唾を飲んで見守っていた。
彼らにとって理解の及ばぬ事態に、城壁の上の兵らの顔に動揺が広がってゆく。門楼で歩哨を束ねていた卒長は、姚華の許へと伝令を遣った。
門楼に上がった姚華は、百乗の兵車を擁する一師・二千五百の兵が、洛邑の南郭門から整然と洛中に入ってゆくのを、血走った眼で凝視することとなった。
漆の塗られた皮甲(=革鎧)を煌びやかに光らせて行進する兵の掲げる軍旗は、白い王淑のものであった。……が、馬首を同じくして併進する騎馬の一旅(=五百騎)の旗は、南方伯の赤旗だったのだ。
「ううぬ……攝(※)めっ‼ よもや緩ごときに与しようとは。王淑を呉れて遣った恩を忘れたかっ」 (※王淑公の諱。王淑公姚攝は姚華の甥(弟の子)にあたる)
王都で武威に及べば、時を置かず昌公緩は采地(=自領)より兵を差し向けるであろうことはわかっていた。そのための出師の準備も、早くより秘かに進められていたろう。
だがこれほど早く昌の兵(それが騎馬のみで構成された先発の一旅であっても)が洛邑に達したのは驚愕だった。
昌と洛邑との間には王淑の版図が横たわっており、姚華の出自の氏でもある王淑氏は、昌氏の兵の北上を妨げるはずだったのだ。
それが軍旗を並べ、ともに洛水の西岸を北上してきた……。つまり王淑は昌に同調し、その軍旅を先導したということである。
姚華はぎりぎりと歯噛みし、荒々しく袖先を振って背後に詰めていた麾下の将卒らに向いた。それぞれの顔を見渡すと割れんばかりの大音声で叫ぶ。
「斯くなる上は是非もなし。我らはこれより、洛水を上り鷲申に向かう。北方伯(原伯)の与力を受け、捲土重来を期そうぞ。みな、勝負はこれからぞ!」
応っという喚声がすぐさま返ってくる。それを満足気に見渡した姚華は、意識をした大股の歩調で門楼をあとにしたのだった。
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