第29話
文字数 1,703文字
翠雅雯の美々しい輿入れが桃原の大路を沸かせた翌々日――。
秋の午後、主人が居なくなって久しい簡氏の広い邸の廂房で、明璇は、来客の顔に貼り付いたように浮かび続ける微笑に仕方なく合わせるよう、微笑を取り繕っていた。
座卓を挟んで座る客は花浩――冠礼を終えたいまは子瀚の字を得ている――、明璇とは血の繋がらぬ従兄だ。
花浩が簡氏の邸を訪れれば、だいたいが決まって徐云のことが話題であった。
徐云が境丘に高偉瀚の門を叩いて早一年半。その間、彼は一度も簡の邸には戻ってこなかった。冬至が過ぎ、掃廟節となっても、ついに顔を見せにも来なかったのだ。
(小云の莫迦……)
確かに「簡の邸になど立ち寄らず勉学に励みなさい」と言ったのは自分だ。しかし本当に一度も訪ねて来ないとは生真面目にも程がある。何度かそれとなく人を遣ってみたものの、まったく効果なかった。
そんな明璇の胸中に思い至らぬ花子瀚は、いつもの微笑のままにいつものように言うのだった。
「あの徐云は見所があるね。僕はなかなか気に入っているよ」
子瀚は、高偉瀚の門人のなかに明璇の従者がいると知ってから、折りにつけて簡氏の邸を訪れ、徐云の近況を伝えてくれていた。
(わたくし、そんなことを頼んだ覚えはないのだけれど)
いくぶん(?)直情径行の嫌のある明璇は、こういう子瀚の卒のなさが苦手なのだった。
それでも徐云がいまどうしているのかを教えてもらえるのはありがたい。我慢しておしゃべりに付き合い、悪い先輩と交流があると聞かされては気に病み、それがどうやら何捷や洪大慶のことらしいと思い至れば愁眉を開いたりしていた。
ところがいったい何を考えているのか、花浩は加冠して官衙(役所)に出仕するようになってからも、月に一、二度は邸に遊びに来る。正直、鬱陶しいことこの上ない。
(早く帰ればいいのに、この口軽男)
このとき、江東の地から渡ってきた茶の煎じ汁を笑顔で喫しながら明璇が胸の中で毒づく相手は、目下の花子瀚一人ではない。
(わたくし、冬至と掃廟節には帰ってきなさいと云ったはずよね。いくら学問に忙しいとはいえ、おなじ桃原の内じゃない。せめて便りのひとつくらい寄越しなさいよ。まったく抜けてるんだから)
自分の叱咤を真に受ける徐云の愚直さに、明璇は軽い怒りすら覚えていた。
(境丘では〝気遣い〟ってものは教えないのかしら……)
……と、
「そうそう、大坐賈の鄭承が後妻を迎えたでしょう」
やはり微笑を貼り付かせたままに、子瀚が続けてくる。
「鄭邸に入った翠雅雯が、妓楼から連れ出してきた妹分に手習い(読み書きの練習)の手ほどきをしてくれる者を、高子に推挙願ったそうです」
「まあ、高老師に」
適当な相づちを生真面目な表情でしてみせた明璇に、子瀚は、ふ、と口許を綻ばせてみせた。
「高子も困ったようです。まあ、鄭氏は王淑一の大坐賈ですから無下にもできないでしょう…――それで僕に相談した、というところのようです」
得意顔の子瀚に、
(ああ、それはあなたが賈師のお役 (市中の監督査察官) にあるから、高老師はあなたの顔を立てて訊いてくださったのよ――)
などと、当人の前では決して口の端に乗せられないことを胸の中だけでつぶやいていた明璇だったが、続く彼の邪気のない言葉で調子が怪しくなっていくことになる。
「僕は徐子を推挙しておきました」
明璇は、話の落ち着き先が読めなくなった。
――なんで小云?
それでも微笑を浮かべ、
「徐云を……」 と、誘い水を向けるように、その名を口にしてみせる――と……、
「ここだけの話です……」 子瀚は身を乗り出してきて、余計なことを言い始めた。「その妹分のひとりが、どうも徐子とは〝知らぬ仲ではない〟のです」
「え……」
明璇は、なんとか言葉を飲み込んだ。
その後のことは、明璇はあまりよく覚えていない。
名残りを惜しみつつ邸を辞した子瀚の表情も、彼が去るのと入れ違いに卓を下げにきた下女の前で胡床を蹴立てて立ち上がった自分の表情も、その下女が自分を見たときの表情も……。
気付いたときには、明璇は奥の間にひとり座し、窓外の、内庭に揺れる赤い楓の方を向いていた。
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