第33話
文字数 1,704文字
何捷に語った〝崔氏七代〟の話は、たぶん本当のことだ。少なくとも自分は作り話はしていない。ただ、証として見せた首飾りの本当の持ち主は麗雯ではなかった。
本当の持ち主は名を裴と言い、まだ青翠院にくる以前に人買いの元で出会った娘である。
祖父の代に良戸から婢(女の奴隷)の身分に落とされたという娘は、やはり婢である母親とともに、身持ちを崩した賈人(店を構える商売人)から再度〝人買い〟の手に渡ってきたのだった。――おそらく家妓(裕福な家に置かれ妾となった妓女)だったろう。
同じ頃に飢饉のため口減らしに売られてきた麗(かつての麗雯の名)とはちょうど年頃も近く、だからだろうか、裴の母ともども一纏めに扱われた。三人とも人並み以上に器量良しだったから、まとめて妓楼へでも納めるつもりであったのか。
何れにせよ、麗はしばらくこの母娘と衣食を共にした。
その間、二人と寄り添いながらも、麗がひとりであったことには変わりはなかった。母の方は気位が高く他の婢と交わろうとしなかったし、それよりもなによりも、母娘ともども周囲のすべてを警戒するようなところがあった。麗の方もまた、親に売られたことで、他人というものを信じられなくなっていた。
そんな麗と裴の心の距離がにわかに近づいたのは、裴の母が流行りの病で呆気なく逝ってしまったことと、ほどなくして裴が求められることとなった人買いの長の夜伽の相手を小麗が代わってやったことがきっかけだった。
麗からすれば、そうすることで自分の待遇を少しでも良くしようという打算でしたことなのだったが、病み上がりの身ですっかり気を弱くしていた裴は甚く感謝してくれた。
そうして冬になり、同じ閨で身体を寄せ合うようにして寒さを凌ぐ夜半には、裴から彼女の秘められた種姓を聴くことが常となった。
――北涼伯 崇威が後胤・崇嘉君の流れを汲む崔氏が七代の末裔……
――崇嘉氏五世から分かれたる崔氏は嬴の姓を伝え……
――六世・宇の代、邢子君に仕えるに際してついに嬴の姓を伏す……
昼の労働に使われ、そのあとには人買いの長の求めに応じ、と疲れた身体を休めねばならない麗は、はじめのうちこそ聞き流していたのだったが、夜ごと憑かれたように語る裴の声は、ふしぎと耳に残った。自分の生命がそれほど長くはないことを、裴は知っていたのだろう。
その冬のうちに裴は逝った。
前王朝の十支族に列なるこの哀しい流転の貴人の末裔は、死の間際、麗の目を見て言った。
「――…小麗。あなたがわたしのことを好きじゃないのは知ってる。わたしだって、あなたのこと、好きじゃなかった」
その言葉ほどには、裴の声音に強さはなかった。麗は、なにが言いたいの? と眉を上げて見返しはしたものの、さすがに表情は神妙なものにならざるえなかった。
そんな麗に、裴は続けた。
「でも、わたしを看取るのは、どうやらあなたね。……だから、〝本当のわたし〟を、あなたに遺していくわ」
なんと応えればいいのか、固まったままの麗に、
「聴いてる……?」 と、ぼんやりとしたふうな裴の声が質したのを憶えている。
「……聴いてるわ」 ようやく応えた麗に、
「そ……じゃ、手を出して」 裴が掌を出すように言った。
そして起きれない裴に寄り添うように、麗がおずおずと差し出した掌に、
「わたしの本当の名……、父親が付けてくれた名は…――」
裴は細い指を置き、滑らせていった。
〝珮〟
「――…珮、よ。……崔 珮嬴、それがわたしの名乗り」
裴(珮)がそう言い終えたとき、麗は、自分の中に何かが滑り込んできたのを感じた。
それが何なのか、こころが理解するよりまえに、珮の、気の抜けたような声が耳に滑り込んできた。
「わたしの胸の上に母者の首飾りがある。……崔氏の家伝なのだって。わたしが死んだら、あなたが持っていて」
それから、珮が浅く息を吐くのを聴く。
「ねぇ、小麗……。わたしのこと、きっと憶えていてね」
麗は、そんな珮を安心させるよう、その痩せた手を両の手で包んでやると、黙って肯いてやった。
そうして首飾りの本当の持ち主は息を引取り、首飾りは彼女の記憶とともに、麗雯の手許に遺された。
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