第53話
文字数 1,841文字
「…………」
南宮 唐 は王孫 航 の白い貌 を見返して、静かに問うた。
「では、やはり鷲申君は負けるか」
「――鷲申君は、自ら育てた士人に足もとを掬 われる。……つまるところ姚 華 (※)は、五富族のための政 をしているにすぎなかった。使われる士人の中 に育ちつつある大志 など、気にすら留めておるまい」 (※鷲申君の姓と諱)
おそらくその通りであろう苦い言を聞かされ、南宮唐は口を引き結んだ。
南宮唐の硬い眼差しを、王孫航は正面から受け止めた。紺碧に染め抜いた直領の袍から淡い色彩の交領の衫を覗かせたその姿は、これまでと同じく洒落者 然としてる。さりながらその両の目は、いつにない底光りを帯びていた。
「なるほど……。すでに士人の心は太師から離れている、ということか」
「その通り。しかも、廖 沈 はともかく、蔡 勝 は国の趨勢 を心底案じておる。だからこそ、天官府に在る者らは太師に見切りをつけるのも早かろう。……蕭 帯 すら、太師の企てを漏らしてきたであろう?」
ふたりのやり取りを聞いていた張 暉 が、たまりかねたように口を挿んだ。
「待ってください。廖 振瑞 も、蕭 尊寶 も、境丘学派きっての秀才ではありませんか。そのおふたりが、朝廷の威信を損なうやもしれぬこと……そんなことに加担するはずがありません! だからこそ蕭子 は、わたくしにこのことを漏らしてくれたのではないですか。それに、おふたりとも鷲申君に恩義ある身。高 老師の高弟として誰よりも〝忠〟を知っているものと…――」
一瞥してそんな張暉を遮ると、王孫航は鼻で笑うように言った。
「おぬしはまだまだ甘いな。秀才だからこそ、機を見るに敏なのじゃ。蕭 帯 は確かにそうかもしれぬが、廖 沈 の方は、つねに太師と太傅とを秤にかけておったぞ」
「そんな――」
「このままでは太師は負ける。南宮 唐 、学派の帰趨 (行きつくところ)を高 老師と図ったがよいぞ。乱の後には激しい粛清の嵐が吹き荒れるやも知れぬ」
「ここは思案どころか……」 南宮唐は、頷き頷き王孫航を向いた。「ふむ、本来であれば、わし自らが桃原に戻り高 子 と協議すべきだが、この時局、洛邑から離れるのは得策とは言えまい。それに、尊寶 も呼び戻さねばならぬしな。……仲逸 、ここはおぬしに任せたい。行ってくれぬか」
最初からそのつもりであったのだろう、王孫航は一も二もなく肯くと席を立った。この男のことだ。こうなることを期して、鄭 氏の店に用意させた船を待たせているのかも知れない。
王孫航が、桃原での派手な遊興の陰で、折りに触れ人目を忍んで、洛邑の鄭 氏の店を訪れていることを南宮唐は知っていた。いまとなってみれば、今日のようなことを窺い知るため、敢えて危険を押して王城の在る都に見え隠れしていたのだろう。
「……なあ、王孫 航 」
「なんじゃ、まだ何ぞあるか」
王孫航は軽く肩眉を上げた。
「なぜ、おぬしは境丘の学派に肩入れする。学堂を主催するのは、そなたにとって仇も同然の王淑公室だぞ」
王孫航の祖父、王孫可に謀叛の疑いありと告発したうちの一人が、他ならぬ鷲申君の父・王淑成公である。
「なにを知れたことを」
困ったように笑みを浮かべた王孫航は、南宮唐に応えた。
「……それがしは、車夫人に恩を感じることはあっても、王淑公や鷲申君には恩も義理も感じぬわ。というて、ここで変に出しゃばって鷲申君に恩を売る気にもなれん。どさくさ紛れに殺されてはかなわぬ。……出る杭は打たれるというしの」
王孫航は韜晦 するふうに目を細めた。
「学匠がたは小うるさいが、境丘は世を忍ぶには実に快適なところじゃ。あそこがのうなってしもうては、それがしは路頭に迷うしかなくなるではないか」
言い終えると王孫航は、袖裾を翻して、入ってきた戸口から部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送った南宮唐は、重い息を吐き出すと、ふと卓を前に座り込んだままの張暉に視線をやった。
「怖いか、張 暉 」
少年は、一瞬躊躇 ってから、いいえ、と首を振った。
「どうやら、怖がっている暇はなさそうですから」
そんな張暉の若い顔に、南宮唐は口許を綻ばした。
「そうか。いい度胸だ。ここ数日の間、忙しくなる。桃原の徐 云 は事態 に間に合わん。おまえがわしの手となり、耳となるのだ」
その言に、張暉は若年ながらに覚悟を決めた。足が震え、膝が笑いそうになるのを必死に堪 え、張暉は頷く。
そんな少年に、南宮唐もまた覚悟を決めるように頷き、目を閉じた。
このようなとき、〝裏向き〟の仕事に長 けた火車 が手許に居ないのは痛いと思う南宮唐であった。
「では、やはり鷲申君は負けるか」
「――鷲申君は、自ら育てた士人に足もとを
おそらくその通りであろう苦い言を聞かされ、南宮唐は口を引き結んだ。
南宮唐の硬い眼差しを、王孫航は正面から受け止めた。紺碧に染め抜いた直領の袍から淡い色彩の交領の衫を覗かせたその姿は、これまでと同じく
「なるほど……。すでに士人の心は太師から離れている、ということか」
「その通り。しかも、
ふたりのやり取りを聞いていた
「待ってください。
一瞥してそんな張暉を遮ると、王孫航は鼻で笑うように言った。
「おぬしはまだまだ甘いな。秀才だからこそ、機を見るに敏なのじゃ。
「そんな――」
「このままでは太師は負ける。
「ここは思案どころか……」 南宮唐は、頷き頷き王孫航を向いた。「ふむ、本来であれば、わし自らが桃原に戻り
最初からそのつもりであったのだろう、王孫航は一も二もなく肯くと席を立った。この男のことだ。こうなることを期して、
王孫航が、桃原での派手な遊興の陰で、折りに触れ人目を忍んで、洛邑の
「……なあ、
「なんじゃ、まだ何ぞあるか」
王孫航は軽く肩眉を上げた。
「なぜ、おぬしは境丘の学派に肩入れする。学堂を主催するのは、そなたにとって仇も同然の王淑公室だぞ」
王孫航の祖父、王孫可に謀叛の疑いありと告発したうちの一人が、他ならぬ鷲申君の父・王淑成公である。
「なにを知れたことを」
困ったように笑みを浮かべた王孫航は、南宮唐に応えた。
「……それがしは、車夫人に恩を感じることはあっても、王淑公や鷲申君には恩も義理も感じぬわ。というて、ここで変に出しゃばって鷲申君に恩を売る気にもなれん。どさくさ紛れに殺されてはかなわぬ。……出る杭は打たれるというしの」
王孫航は
「学匠がたは小うるさいが、境丘は世を忍ぶには実に快適なところじゃ。あそこがのうなってしもうては、それがしは路頭に迷うしかなくなるではないか」
言い終えると王孫航は、袖裾を翻して、入ってきた戸口から部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送った南宮唐は、重い息を吐き出すと、ふと卓を前に座り込んだままの張暉に視線をやった。
「怖いか、
少年は、一瞬
「どうやら、怖がっている暇はなさそうですから」
そんな張暉の若い顔に、南宮唐は口許を綻ばした。
「そうか。いい度胸だ。ここ数日の間、忙しくなる。桃原の
その言に、張暉は若年ながらに覚悟を決めた。足が震え、膝が笑いそうになるのを必死に
そんな少年に、南宮唐もまた覚悟を決めるように頷き、目を閉じた。
このようなとき、〝裏向き〟の仕事に