第34話(終章)

文字数 1,550文字

 頃王の十五年の秋――。
 境丘学派に学ぶ者どもの受難がおぼろげな形となって顕れはじめたのは、あるいはこの頃からであったろうか。
 逢の宰輔(さいほ)(ツァィ)才俊(ツァィヂィン)の推し進める〝変法〟の素案を諮問するため、鷲申君の招聘した学匠学徒らの第一陣が王都・洛邑の城門を(くぐ)ったのは、秋もそれ程の深まりをみせていない時期であった。
 入洛後、すぐにでも逢の宮廷で議論を戦わせる心算(つもり)であった境丘派の学才らは、市中に供された邸に半月余りも留め置かれることとなる。
 折しも頃王が西方巡察の途にあって、鷲申君もその随員として洛邑を離れていた。
 無為の時間(とき)ばかりを過ごすこととなった彼らの中には、南宮(ナンゴン)(タン)(シャオ)尊寶(スンバォ)の姿もあった。

 最初に()()()()に気付いたのは南宮唐だった。
「どうやら、これは謀られたぞ」
 尊寶が南宮唐からそのように告げられたのは、待てども待てども天官府からの使いの訪れぬ邸に、正体不明ながらいずれ良家の家人であろう士人の姿が、入れ代わり立ち代わりに現れるようになった頃である。
 彼らはそれぞれに境丘の学者学徒に近付くと声を潜めて、「わが主人(あるじ)が貴方様のご高説を賜りたいと願っております」やら「是非とも邸にて深く議論を持ちたいと仰せです」などと耳打ちし邸の外の会合に誘った。
 そうして誘われた者らのうちの様子がどうにもおかしくなってゆく。(くだん)の〝変法〟に関し、その見方に閥を作り、互いに探りを入れるような目を向け合うようになったのである。
 自身もそういう気配を感じるようになっていた尊寶は、南宮唐のその見立てに首肯せざるを得なかった。
 ふたりは境丘の学者として、今回の変法について〝なんの予断も持たぬ〟よう臨んでいたが、そのような者は、気付けば彼らだけとなっているようである。

「われら学派を裂こうというのは、やはり(ツァィ)宰輔(さいほ)でしょうか?」
 声を(ひそ)めて訊く尊寶に、南宮(ナンゴン)(タン)はやや慎重な面差しとなって応える。
「――どうであろうな。そのような姑息な手段()に訴えるような人物(ひと)には思われぬが……。 が、ま、そうかも知れぬ……。それよりは太傅(たいふ)(昌公(かん))か、もしくはその意を汲んだ同調者の誰ぞかも知れぬがな。
 何れにせよ鷲申君は敵が多すぎる」
 それから、苦笑ともとれる表情(かお)をして言った。
「……火車(フゥオチゥー)を呼んだ」
 尊寶は、小さく頷いて南宮唐の考えを首肯した。
 もとは無頼の徒の火車は、この手のことを探る仕事にうってつけと思えた。

 数日後、急ぎ入洛した火車に状況を説明し、境丘の同僚の洛邑における新たな親交を探るよう指示すると、果たして火車は、その数日の後にはもうおおよその親交の背後にある関係を探り当ててきたのだった。
 やはり学派の者に近付いてきた者らは、太傅(たいふ)・昌公(かん)の周辺で権勢を揮う卿・大夫であった。境丘より送り出された第一陣の学匠学徒らの過半が、すでに太傅の閥の側に取り込まれている事実(こと)は、ふたりには少なからぬ衝撃である。
 半ば予想していた通りのことであったが、そうと判ったところで、一介の学者でしかない南宮唐と尊寶には、何をどうすることもできない。桃原の章弦君にはこの事実を伝えたが、返ってきたのは「現在不要動(今は動くな)」という指示であった。
 頃王の巡察に同行する鷲申君との連携が出来ない章弦君としては、いまは下手な動きを見せたくないという所であろうか。王はこの西方の巡察に精力的に取り組んでおり、随行の鷲申君も多忙であった。

 そうして、そうこうしていると、この秋の諮問は頃王の帰城まで延期ということになり、境丘の学匠らも桃原への帰途に就くこととなった。
 一見するとまるで茶番のような洛邑での一月半であったが、南宮唐と尊寶は、洛邑における鷲申君への反動・反撥を主導する昌公の存在を意識しないわけにはいかなかった。
 ふたりにとって、ただ徒労感ばかりが残った入洛であった。
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