第74話

文字数 1,785文字


火車(フゥオチゥー)を使い、今日、おぬしがここへ来るよう仕向けたのには理由(わけ)がある――」
 部屋の奥の卓に着いた尊寶(スンバォ)は、卓上の酒の(かめ)から柄杓(ひしゃく)を引き上げると、おなじ卓上に無造作に置かれたままの木椀のひとつに無造作に装い、手を止めた。そして、どうする(呑むか)? と目線で(シュイ)(ユィン)に訊いてくる。
 徐云が頷いて返すと、その手の椀を差し出し、それから自分のための椀を卓上から適当にひとつ見繕い、酒を満たして、徐云へと掲げてみせる。徐云もまた、渡された椀を掲げて返した。
 そうして、ふたりは互いに口許を袖で隠して(※)木椀を(あお)った。
(※儒教では、目上の人に食べ物や飲み物を口に入れる瞬間を見せるのは失礼な行為とされ、酒を飲むときや食べ物を口元に運ぶ際には、杯や箸を持っている手と逆の方向の袖で顔を隠しながら飲んだり食べたりするのが礼儀とされた)

 強い酒だった。
 (むせ)そうになるのを堪える徐云の顔が、みるみる赤くなっていく。対して、尊寶の顔色はといえば、いっこうに白いままで変わらず、その手は二杯目の柄杓(ひしゃく)を甕から引き上げようとしている。
 これはさすがに付き合えぬと、徐云は話を先に進めることにした。
「それで……その、理由(わけ)と言いますのは?」
「うむ。(リャオ)振瑞(ヂェンルイ)を討ち果たしたい」
 それは気負うところのない声だった。尊寶は二杯目を椀へと(よそ)って、続けた。
「――…それでおぬしと(ホー)(ジェ)の友誼に縋りたいのだ」

 徐云は、慎重な面差しとなって尊寶を見るしかなかった。
 (リャオ)振瑞(ヂェンルイ)を討つ、との言葉は、徐云は胸のどこかで予期していた。そのうえで、脳裏に、桃原での王孫(ワンスン)(ハン)の忠告がよぎったかも知れない。
 それはおき、何捷の名がいま出てくるとは思っていなかった。
(ホー)(ジェ)がいま、(ファン)(クゥァ)と名乗って天官の史生の職にあるのは知っているか?」
 尊寶に訊かれ、徐云はぎこちなく肯いた。
 それで尊寶は、()()の顛末については割愛(かつあい)できると判じたのだったが、同時に、ふたりの間にやはり何かあったと知った。

 境丘を出た何捷と残った徐云――ふたりの間にどのような葛藤めいたものがあったか、尊寶は知らない。
 洛邑の府第(ふだい)にともに出仕していたときも、自ら語らぬ何捷に、敢えて聴くことはなかったし、南宮唐の邸においても、范克という人物のことを語ろうとも、それが何捷であるということは黙して語らなかった。――それが〝范克として生きる〟何捷の、意に沿うことだったからだ。

 尊寶は、本当ならば、ふたりの友情の行く末に資する何かしらの(ことば)を贈ってやりたかった。
 が、いまの尊寶にそのような余裕などなかった。
 衛士府に追われる身である自分が直截(ちょくせつ)に何捷に会えば、それだけで彼に累が及ぶこととなる。徐云ならば、旧交を(もっ)て会うことに疑義を持たれ(にく)い。
 選択の余地のない尊寶は、こちらの(のぞみ)だけを、ことさら配慮することなく口にした。
「――なんとか(ホー)(ジェ)(わたり)を付け、振瑞(ヂェンルイ)府第(ふだい)の外に誘い出せぬであろうか」

 その言は外連も衒いもなく、ただ後輩の持つ手蔓(てづる)に期待するばかり、という響きに聞こえなくもなかったが、そこに込められた抜き差しのならない想いに、徐云は気付いている。
 ふと徐云は、思い切って訊いてみた。
火車(フゥオチゥー)を使われているということは、この件、(ガオ)老師(ラオシー)南宮(ナンゴン)老師(ラオシー)も承知しておられますか」
「いや、この件に境丘学堂の学匠は関係しない」
 尊寶は即座に否定し、それで徐云は確信した――。
 (シャオ)尊寶(スンバォ)(リャオ)振瑞(ヂェンルイ)と刺し違える気なのだ。ことを成した後に、自らが生き残るつもりはないのだ、と。
 自らもその才を献じて進めた〝変法〟…――それが、かつて友誼を結んだ兄弟子による〝境丘の切り捨て〟という不面目を招いたことに、彼は責任を感じているのだ。
 だから恥も外聞もなく、後輩若輩の自分を頼るということをしてみせている。
 これは()けねばなるまいと、まして止めようなどとても無駄だと、徐云は思った。
 この頼みごとは、あの乱の折、何も出来なかった自分に、天が与えてくれた機会なのかも知れない。……なんとしても、何捷の赤心( )(飾りのない、まごころ)に訴えて、彼を動かさねば。

「わかりました。何とか致しましょう」
「――すまぬな」
 威を正した揖礼で応えた徐云に、同じく威を正して感謝の言葉を口にした尊寶の顔は、透き通るように美しい男の顔であったと、後年、徐云は回想することになる。
 それは、敬愛する兄弟子の、美しくも悲しい記憶となって残ることとなった。
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