第3話
文字数 1,624文字
明璇は、はじめ辟易として男の大言を聞き流していた。
彼女とすれば、ただ、娘(――といっても明璇よりは年上らしい……)を相手に小難しい言葉を並べてやり込めようとする〝学匠(学問のある人物)気取り〟の男に、「大人気のないことはおやめなさい」と横から口を挿んだだけである。
件の娘はといえば、明璇の横で気の強そうな顔を外方に向け、気だるげに、ことの顛末を窺っている。
男だけが熱くなり、盛んに腕を振り回して甲高い声を張り上げていた。
(ばからしい……わたくしはいったいここで、何をやっているのかしら……)
そういううんざりとした表情を対面する者に見せては礼を失すると、明璇は面を伏せている。だが男は、そんな明璇の姿を意気消沈して言葉もないものと勝手に解釈し、増長の度合いを強めていった。
そして崇侯瑛の故事の件である。
男の「――…首を所望したとて大過なしと思うが、如何」の言に境丘門道の往来の中の〝うだつの上がらぬ学士崩れ〟といった手合いが沸いたとき、ついに我慢することを止めた明璇が、きりっとした顔を昂然と上げて口を開いた。
「なるほど崇侯瑛の妾は浅学で崇侯の食客たる躄者(足に障害ある人)を笑い、その躄者の申し立てによって首を刎ねられました。
しかしながらあなたは躄者ではなく、その足で自ら章弦君さまの下に出てそれを求めることもしていない……そもそも章弦君さまの食客ですらないようですし…――」
ここで明璇は、十分に嫌味な溜息を吐いて、いったん言葉を切った。
面前の男はもとより往来の学士崩れどもも声を失ってしまっている。隣の娘が可笑しそうに目を細めたのだったが、それは明璇には見えていない。
十分に間を計ってから、明璇は話を終いに懸る。
「…――ここで意味のない放言を重ねるくらいなら、さっさと章弦君さまの邸の門をこそ叩くべきと思うのですが……如何」
すると、それまで男の弁に湧いていた学士崩れどもは、今度は明璇に同調し、その歯切れの良さを褒めそやし始める。
そんな外野の動向など委細かまわずに、明璇は、十三歳という年齢に似合わぬ威を細い身体いっぱいに漲らせ、男を正面から見据えた。
まだ笄礼まえの小娘にこうまでやり込められたかたちの男は、眉間に皺を寄せつつ口の端を歪めて開いた。
「ふん、口は達者だな、小娘。そなたは多少学がありそうだ。――だが耳学問とは当にこのこと。『三従四徳』の教えすらままならぬ女が学問のまね事をすればこれだ……」
『三従四徳』とは、女が従うべきとされた三つの道と四つの徳をいう。
則ち「家にありては父に従い、嫁に出でては夫に従い、夫死しては子に従う」の〝三従〟と、
女らしさをいう「婦徳」、
女らしい言葉遣いをいう「婦言」、
女らしい身だしなみをいう「婦容」、
そして家事のことをいう「婦功」……の〝四徳〟のことをいう。
〝この国〟に生れた女は、数え十歳となるとこれを学ぶこととなっていた。
つまり男は、往来の中、衆目の面前で〝天下の士〟たる自分を論難するような女には「婦言」と「婦徳」がないと言ったのだった。
再び外野の学士崩れどもの声が大きくなったようだった。この場合はもちろん賛意に、である。
(――はぁ⁉)
心の中だけでとはいえ、そんな慎みのない声を上げることとなった明璇は、もう男の嘲笑と挑発の言葉にまともに取り合うことをやめた。
「わたくしの婦徳は、ただわたくしの心の中に育んでいるもの。婦言はその現れです。それは、あなたの言に無理があることとは関係がありません」
ぴしゃりとそう言ってやると、明璇は、あとはもう話すことはないとばかりにくるりと身を翻した。最初に絡まれていた娘も、勝手にこの場を辞するだろう、と。
……そんなことの顛末を〝ふたりの娘の背中の側〟から見遣ることとなった徐云は、いまや往来の中で笑いものとなった件の処士の表情が、あっという間に豹変したのに、声を上げるよりも早く一歩を踏み出していたのだった。
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