第79話
文字数 2,003文字
密使・廖 沈 の乗った軒車が宮門を出たのは、夜の五更 (※)も半ばを過ぎたあたりであった。
(※一夜を初更 (甲夜)・二更 (乙夜)・三更 (丙夜)・四更 (丁夜)・五更 (戊夜)に五等分した称の〝五つ目〟……およそ午前四時から午前六時ころ)
軒車は秋官の発行した割符 (※外交は秋官の所掌)を見せるだけで洛邑都城の郭門をすんなり抜けると、そのまま亀城への経路を進んだ。
これに先立ち、亀城の内と外――ここは事実上、都邑の東郭として発展している――では、この何処かに息を潜めているはずの蕭 尊寶 を捕らえるべく広げられた警戒の網の目が、ゆっくりと閉じられようとしている。
すでに少なくない数の不逞 の徒 (=不満分子。ここでは姚 華 派の残党)が、流 満 と何 捷 の指揮の下、巡検の衛士・警吏の手によって捕らわれていたが、まだその中に蕭尊寶の顔はない。
もう夜が明けようとするなか、何捷は軒車が亀城の西郭門に達すると、流満ともども門前に廖 振瑞 を出迎える。供回りに衛士は連れなかった。
いまだ尊寶を捕らえるに至ってはないことに、餌役 (=囮)の振瑞は戦々恐々とした表情で何捷と流満とを向いたのだったが、何捷の方に焦りはない。
相手は頭脳明晰な蕭尊寶である。衛士・警吏の増強の件は伏せてあったが、そのようなこと、先方とても と よ り 承知のことであろう。むしろ尊寶がどのような手立てを以 て逢の密使を襲うのか、それが楽しみでさえあるのだ。
硬い表情の廖振瑞に無言で肯いた何捷は、次いで軒車の御者を向いて合図をして徐行を再開させた。そして自身は流満とともに軒車の脇に並び、割符の特権で開かせた郭門を潜った。
そろそろ最初の鶏が啼く頃である。
尊寶がもし亀城で仕掛けてくるならば、そろそろ姿を現すはずだ。
亀城に動きが生じたのは、軒車が、船着き場を隔てる東門までの門道の条を、半ばまで進んだときである。
そこは亀城の目抜き通りである坊の大路との辻であった。
すでに一番鶏が啼いており、街中には、まだ薄暗いなか、早朝の洛邑へと開かれた門へと船着き場から白い息を吐きながら急ぐ人の姿を、ちらほら見やることができた。
そんな冬の湊 の景色の中に、変化が生じた。
「王府を支える天官の能吏よ! かつての哀れな仲間よ……!」
辻の北側から、聞き覚えのない、くぐもった泣き声を聞いた。
何捷と流満がそちらを向くと、坊の路の中央を、丸顔の髪を振り乱した薄汚れた男が、とぼとぼ歩いてくる。素衣・素裳 の(……頭に冠はなく、埃に塗れたその髪はざんばらに風に舞わすに任せている)不逞の男は、巡検の網に掛かって捕縛された〝境丘者〟であろうか……よく見れば掛けられた縄を引いており、後にはその縄の端を持った警吏が付いている。
男は周辺になんらを遠慮するようなことなく、天を仰ぐように泣き声を大にして続けた。
「――…これは羊を虎口に放るが如しぞ……。此度 、王淑に赴けば、使者は復命すること能 わず、二度と洛邑を見ることはできぬであろう!」
何捷が周囲を見渡したの見て、辻に配された歩哨のひとりが忌々し気な表情を浮かべた。
――このようなことを喚き散らすに任せるとは、縄を持つ警吏は、いったい何を考えているのか。猿轡 を噛ませるなりして黙らせるべきであろう……。
だが、この闖入者に早速応対しようという歩哨の動きを、軒車の中の振瑞が止めた。そして「あの者をこれに」 と指示したのだった。
その間にも〝境丘者〟らしい素衣・素裳の男は、いよいよ声を枯らして叫んでいた。
「哀れ哉 、廖 沈 ……。痛ましき哉、かつての境丘の麒麟よ!」
流満が、つと、傍らの何捷に目線を向けた。何捷はそれを無視して、振瑞のするがままに任せて黙っている。
辻には伍 (=五人の兵)が一つばかり配されており、件 の男を連行していた警吏も合わせれば、都合、九名ばかりが周囲を固めている勘定である。それに気を大きくしたのか、振瑞は軒車を降りて男に近づくと相対した。
「あなたは境丘の者か?」
「ふん……」 一応の礼を示して質した振瑞に、男は鼻を鳴らして応じた。「如何にも」
振瑞は問いを重ねる。
「あなたのその話、どのような根拠によるものか?」
男は長嘆息した。
「嗚呼……、廖 沈 は太師の恩を仇 で返し、境丘の理をも裏切った。学派の者はこの仕儀を遺憾として哀 しみ、その品性を哀 れみ……そして怨んでいる」
それに激昂した振瑞が叫ぶ。
「だが章弦君とて、此度 は天子の法 に従ったのだ! わたしだけが責めを負う道理はなかろう」
「ふん……。さて、その道理はともかく……」
すると男は、すこし不自然な間を置くと口腔から何かを吐き出し、それからすっきりと端正な男振りとなった貌で振瑞を見据えて言い放った。「――かようなおまえを赦さぬ者が世には居り、こうして道中を襲うのも道理だからだ……!」
口に含んでいた綿を吐き出したその男の声は、聴きなれた蕭尊寶のものだった――。
(※一夜を
軒車は秋官の発行した
これに先立ち、亀城の内と外――ここは事実上、都邑の東郭として発展している――では、この何処かに息を潜めているはずの
すでに少なくない数の
もう夜が明けようとするなか、何捷は軒車が亀城の西郭門に達すると、流満ともども門前に
いまだ尊寶を捕らえるに至ってはないことに、
相手は頭脳明晰な蕭尊寶である。衛士・警吏の増強の件は伏せてあったが、そのようなこと、先方とて
硬い表情の廖振瑞に無言で肯いた何捷は、次いで軒車の御者を向いて合図をして徐行を再開させた。そして自身は流満とともに軒車の脇に並び、割符の特権で開かせた郭門を潜った。
そろそろ最初の鶏が啼く頃である。
尊寶がもし亀城で仕掛けてくるならば、そろそろ姿を現すはずだ。
亀城に動きが生じたのは、軒車が、船着き場を隔てる東門までの門道の条を、半ばまで進んだときである。
そこは亀城の目抜き通りである坊の大路との辻であった。
すでに一番鶏が啼いており、街中には、まだ薄暗いなか、早朝の洛邑へと開かれた門へと船着き場から白い息を吐きながら急ぐ人の姿を、ちらほら見やることができた。
そんな冬の
「王府を支える天官の能吏よ! かつての哀れな仲間よ……!」
辻の北側から、聞き覚えのない、くぐもった泣き声を聞いた。
何捷と流満がそちらを向くと、坊の路の中央を、丸顔の髪を振り乱した薄汚れた男が、とぼとぼ歩いてくる。素衣・
男は周辺になんらを遠慮するようなことなく、天を仰ぐように泣き声を大にして続けた。
「――…これは羊を虎口に放るが如しぞ……。
何捷が周囲を見渡したの見て、辻に配された歩哨のひとりが忌々し気な表情を浮かべた。
――このようなことを喚き散らすに任せるとは、縄を持つ警吏は、いったい何を考えているのか。
だが、この闖入者に早速応対しようという歩哨の動きを、軒車の中の振瑞が止めた。そして「あの者をこれに」 と指示したのだった。
その間にも〝境丘者〟らしい素衣・素裳の男は、いよいよ声を枯らして叫んでいた。
「哀れ
流満が、つと、傍らの何捷に目線を向けた。何捷はそれを無視して、振瑞のするがままに任せて黙っている。
辻には
「あなたは境丘の者か?」
「ふん……」 一応の礼を示して質した振瑞に、男は鼻を鳴らして応じた。「如何にも」
振瑞は問いを重ねる。
「あなたのその話、どのような根拠によるものか?」
男は長嘆息した。
「嗚呼……、
それに激昂した振瑞が叫ぶ。
「だが章弦君とて、
「ふん……。さて、その道理はともかく……」
すると男は、すこし不自然な間を置くと口腔から何かを吐き出し、それからすっきりと端正な男振りとなった貌で振瑞を見据えて言い放った。「――かようなおまえを赦さぬ者が世には居り、こうして道中を襲うのも道理だからだ……!」
口に含んでいた綿を吐き出したその男の声は、聴きなれた蕭尊寶のものだった――。