第50話

文字数 1,839文字


 澄んだ秋の日差しに、宮城の外廷と市街大路とを隔てる城壁の向こうに覗く府第(ふだい)(六官府の正庁区)に立ち並んだ官衙の(いらか)が輝いて見える。
 柔らかな絹の手触りにも似た涼風に頬を撫でられると、夏の燃え盛る暑さが去った後だけに、爽やかな秋の気配が心身を澄ませてくれる。
 (ヂャン)(フゥイ)は、馬上で、うーん、と両の腕を天へと伸ばした。
 南宮唐の命で外廷の動静を探りにきたのであるが、別に探るといっても諜者の真似事をするわけではない。府第に出仕した境丘の学派の先輩方を足がかりに、外廷の官衙を訪ねて回るのである。

 目端の利く彼は、その童顔を武器に、あちこちの官人と親しくなって帰ってきた。
「僕、いずれは廷吏となって身を立てたいんです。どうしたらあなたみたいな良吏になれますか」
 幼さの残る少年に憧れ混じりの視線を向けられて、嫌な気になる者はほとんどいない。そのような者は、たいてい、あれこれと宮城内の事情を尋ねられ、はたと気づけば、役人たちの人間関係から女出入りまで吐かされていた。

 目の前に路門の門殿( )(三層の楼閣門)が見えてくると、さすがに張暉も威儀を改めた。
 門前で下馬し、外馬丁に幾許(いくばく)かの〝心付け(チップ)〟を渡して馬を預ける。それから路門を潜って外廷の中に入った。
 今日はどこの府の正庁舎から回ろうかと首を向けた張暉は、目の前の官衙から出てきた人影に、おや、と小首を傾げた。
 人影は(シャオ)尊寶(スンバォ)だった――。
 尊寶は先年の正月に一緒に入洛したのだったが、彼はすぐに天官府の大史( )(中位の実務職)に抜擢され、以来、ほぼ毎日宮城に泊まり込むようになっていた。それで、滅多に顔を合わす機会がない。
 さて、その尊寶であるが、いつも冷徹な横顔がめずらしくぼんやりして見える。張暉は首をひねった。

 境丘の学派に属する尊寶を天官府に招いたのは、太傅( )(昌公緩)の懐刀と目される(ツァィ)才俊(ツァィヂィン)である。鷲申君の子飼いともいうべき学派にとり、云わば敵方である蔡宰輔の許に走った尊寶は、異例の抜擢ということもあって、今や外廷の官吏の中にあって知らぬ者のない存在となっていた。
 登用後は、同じく天官で宮卿補を務める(リャオ)振瑞(ヂェンルイ)とともに卓越した頭脳で頭角を現しつつも、太傅派( )(昌閥)に(おもね)るでなし、かといって太師派( )(王淑・境丘閥)に(なび)くということもなし、というふうに理を語り、道を(えら)んでいる。(まさ)に良吏といえようか。
 むろん外殿( )(=朝議の間)においては、()()中士に過ぎない尊寶に自ら発言する権限(こと)は許されていないが、宰輔の()()()()()()という態で堂々たる政論を戦わすこともしばしばだった。
 鷲申君・章弦君が見出しつつも、上手く使うことが出来なかった若い才能が、蔡才俊によって花開きつつある。太師派と太傅派とに相分かれて揺れる宮城の未曽有の混乱を、天官府は上手く収拾していた。
 蔡才俊、廖振瑞、蕭尊寶……彼らの力量があれば、太師・太傅の対立もやがて和解に持ち込めるかもしれない。府第に詰める官吏の中には、そのような期待が拡がりつつあった。
 それだけに、いつにない彼の思案顔に、張暉は不審を覚えた。

「これは(シャオ)大史。お勤め、ごくろうさまです」
「あ……ああ、おぬしか」
 片手に冊簡(さっかん)を握った尊寶は、ようやく張暉の姿に気付き、目をしばたたいた。
「ご無沙汰申し上げております」
 丁寧に揖礼した張暉を、尊寶は唇を引き結んで見下ろしたのだが、
「ちょうどよかった。ちょっとこちらに来い――」 不意にその袖を掴むと物陰へと引っ張っていった。
 王の起居する内廷と違い、大小の官衙がひしめく外廷の辺りは意外に雑然としている。大蔵の並ぶ御庫まで来ると、尊寶は張暉の身体を蔵の壁に押し付けた。
「な、なにか御用でございますか」
 長身の尊寶に肩口を掴まれ、張暉の踵はほとんど浮いている。
「あ、蕭子(シャオヅゥ)の噂話なんか、わたくしは何もしていませんよ。せいぜい存じ上げているのは、ご出自と(リャオ)宮卿補とのご関係くらい……その仲が怪しいとか、(ツァィ)宰輔の少人(しょうじん)(=男色における弟分・若衆)だとか、そんなことは存じません」
 尊寶は鋭い目で素早く周囲をうかがい、黙れ、というように片手を上げた。
「あと、章弦公主の女官が蕭子(シャオヅゥ)に懸想されているとの噂も、わたくしが流したわけじゃ――」
「たわけ、そのようなことはどうでもよい」
 冷たく言い放たれ、張暉はひっと首をすくめた。
「急ぎ南宮(ナンゴン)老師(ラオシー)に伝えよ。本日、太師が都督畿内三監四関諸兵事なる官職にお就きになられた」
 切迫した気配に、張暉は表情(かお)を引き締めた。
 どうやらこれはただごとではなさそうだ。
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