第81話(第一部 了)

文字数 2,178文字


 密使・(リャオ)(シェン)の乗った軒車と(リィゥ)(マン)を見送り、(ホー)(ジェ)はひとりその場に残った。
 もともと辻に配置されていた歩哨も、遺骸を移すための(えい)(=仮の棺)を探してくるよう言い付けて遠ざけた。このまま亡骸を放置すれば、ただの狼藉人として処理されてしまう。それは避けたかった。
 そうして只ひとりとなって、もの言わぬ(シャオ)尊寶(スンバォ)の脇に佇んでいた何捷は、背後にひそやかな足音が迫っていることに気づかなかった。
 ――誰かがいる……!
 そう気づき振り返ろうとした刹那、何捷は焼けるような衝撃を脇腹に感じた。すぐに激しい悪寒が背筋を走る。何捷は、反射的に身を(よじ)り、背後の影に掴みかかろうとした。
 振り見やった視界の中に、驚愕と狼狽(ろうばい)を複雑に滲ませた(シュイ)(ユィン)の顔を見とめた。
 視線を自分の身体の方へと引き寄せる。
 徐云の、細かく震える両の手が握り締めた八寸ほどの匕首(ひしゅ)が、柄元まで深々と左腰に付き立っていた。
 徐云が、はっと匕首を(はな)して後退った。その視線は、何捷と尊寶の亡骸との間をせわしなく行き来している。
「この人殺しめ! おまえが蕭子(シャオヅゥ)を手に掛けるなんて……」
 違う、と呻いた声は、言葉にならなかった。
 朱に染まった匕首を力任せに引き抜き、何捷は萎えそうになる足を励ましながら徐云に歩み寄った。
 溢れ出た鮮血が、ずるずると血の跡を()く。気圧された徐云が後退った。
「ち、近づくな! この裏切者っ」
(ああ……そうか……)
 唐突に、なぜ尊寶があれほどまで廖沈を赦すことができなかったか、わかった気がした。尊寶にとっての廖沈が、徐云にとっての自分なのだった。おなじものを見ても、おなじように感じることのできない存在…――。
 尊寶や徐云のようなものからすれば、自分や廖沈の些細な不義すら、それまでのともに生きてきた時間をも穢す汚点となり、永久に自らを苛むことになるのだろう。
「待て。待ってくれ、(シュイ)(ユィン)……」
 何捷の懇願は、逆上した彼の耳には届いていなかった。

 払暁に、見張っていた西郭門が正体不明の軒車のために開かれたのを見た徐云は、軒車の後をそっと付けたのだったが、坊の大路との辻に差し掛かる頃、街中を警戒する衛士の気配が増えているのを感じて門道の条をひとつ外れた。すると間の悪いことに、一伍( )(=五人)ばかり巡邏の兵の姿を見ることとなり、息を殺して隠れるうちに、無為に時間を過ごさざるを得なかった。
 ようやく巡邏の兵をやり過ごして辻へと駆けつけた徐云は、その場の光景に、咄嗟に何捷が手に掛けたのだと思った。仇を取るつもりなどなかった。ただ、自分でもわけのわからぬ怒りに突き動かされ、思わず懐に忍ばせていた匕首を抜き放っただけであった。

 暁光の中に仰向いて斃れる尊寶は、蒼白の半面を自分の血に浸している。
 徐云は激しく首を振り、血走った眼で何捷をにらみつけた。
「――(シャオ)尊寶(スンバォ)は、その命を捨てて、ただ境丘を欺いてきた廖子(リャオヅゥ)の不義不忠を(ただ)そうとしていた! 変法の是非や、境丘への仕打ちに不満あってのことじゃないっ」
 脇腹から流れ出る血の所為(せい)ではなく、すっと胸が冷えた。
「受けた恩を仇で返すのは非道だし、(リャオ)振瑞(ヂェンルイ)牽強付会(けんきょうふかい)(=自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること)な様は、ただ、自身の立身しか見ていない証だったろう! それを、境丘に学んだ者として赦せなかっただけだ! それなのにおまえは――」
 何捷は息を吐いた。
 そうだ。この直向(ひたむ)きさが、この()()()()()()正しさが、自分には疎ましく、そして眩しくてならなかった。
 ぐっ、と何捷は歯を食いしばり、心を決めて一歩を踏み出した。
 さらに後ろに退こうとする徐云の肩を掴まえる。その瞬間、下半身から力が抜けた。押し倒すように二人してその場に倒れ込みながら、何捷は。息だけの声で辛うじて言った。
「――逃げろ、(ユィン)
「な……」
 残っている力を振り絞り、振りほどこうとする徐云の手を押さえる。
「この場にいれば、お前までが巻き添えになる。だからすぐこの場を去るんだ」
 いくら自分が庇ったとて、天官府の史生を刺してただで済むはずがない。その上、徐云もまた境丘の者。下手をすれば太師派の残党との関係を疑われ、拷問、という恐れもある。
 抗っていた徐云の腕から、力が抜けた。
蕭子(シャオヅゥ)を手を掛けたのは、おまえじゃないのか」
「違う。衛府の者だ……」
 短い答えに、徐云は目を見張った。もがいていた腕が、がくりと落ちる。
 痛みをこらえながら、それにやっと笑いかけ、何捷は片手を振った。今更のように傷をふさごうという徐云の手を、鬱陶し気に追い払う。
「さっさと行くんだ」
「……(ジェ)、ぼくは――」
「いいから、行け――!」
 腰から下には、もうまるで力が入らない。おそらく、命に障りはないだろうが、文弱の徒が、よくもまあ莫迦力を出したものだ。
 この期に及んで、徐云に行く当てがあるのかどうかはわからない。しかし彼がここでむざむざ命を落とすのを見過ごすわけにはいかなかった。
 何捷の双眸(そうぼう)を見つながら、徐云はゆっくりと立ち上がった。二、三歩と後退り、それからようやく、踵を返して駆けだしてくれた。
 黎明に吹く東風が巻き上げた砂塵の先に、白い袍が吸い込まれるように消えた。いや、視力が失われただけか。
 何もかもが、あまりに大きな過ちの中に落ち込んでいく。
 急速に視界が暗くなる中、何捷は、遠くに何かが水へと落ちた音を聴いた。
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