第57話
文字数 1,895文字
王城が太師・鷲申君の兵に攻められるという、未曽有の事変に騒然となった逢の都・洛邑。
事変の明くる朝、まだ陽の明けやらぬ東の空を、雲が流れていく。
市中には敵か味方か判らぬ戦装束の者らが、息を殺し、其処彼処に潜んでいる。
そんな殺伐とした気配に包まれた都邑の、境丘の学匠・南宮唐の仮初の邸――。
「南宮老師。どうやら太師は、洛邑での戦を避けて亀城へ退いたようです」
市中の様子を探りに出ていた張暉は、邸の門を潜るや、内院(中庭)を真っ直ぐに突っ切って、正房の自室の床に直に座って洛邑の絵図を拡げていた南宮唐に近付き、そう耳打ちした。
南宮唐は面を上げ、その目を火車に向けた。
「……そうか。それは賢明だったな。尤も、都邑の民らのことを慮れば自ずとそうなろうが。三公が各々の軍勢を出して逢の王城で戦うなど救いがない」
そう言を継いだ南宮唐は、張暉の表情の中に何かを感じ取った。
「なんだ、どうした?」
「じつは、蕭大史をお連れしております……」
「なに⁉ 尊寶をか。そうか戻ってきたか…――」
これは難題が解決した、とばかり破願しかけた南宮唐は、曇ったままの張暉の表情に、自らも怪訝となって訊き直す。
「どうした」
「邸の門前で、ばったり行き合いましたので、そのままお連れしたのですが……」
どう説明したものかと、しばし押し黙った張暉は、結局、自身の目で確かめてもらった方が早いと、尊寶の居る倒坐房(邸の南側の建屋)の一室まで南宮唐を連れて行った。尊寶は、東廂房の自室へは、促しても上らなかった。
張暉に案内された南宮唐が油燈を手に厨に入ったとき、尊寶は、目ぼしい食物を詰め込んでいるところだった。獣脂を燃やす薄暗い灯りの中の彼は、なるほど、息を呑ませるものがあった。
もともと怜悧であった顔つきは更に研ぎ澄まされ、見る者に言葉を失わせる暗鬱さを帯びている。その昏い眼差しと目が合うと、尊寶の方から口を開いた。
「南宮老師…――面目次第もない」
言葉を探す南宮唐に、これだけは変わらぬ醒めた口調で、自嘲気味に口許を歪め、言う。
「太師はもう終わりですよ。昨日、振瑞が天官府で作成した官符の写しを持って、太傅の邸に駆け込みました。これで太師の企まれたことは、すべて主上に筒抜けです。挙兵後の軍策も、その後の人事案も、府第(六官府)の味方の名もことごとく――」
張暉が、幼い顔を天に向け目を閉じた。
尊寶は立ち上がると腰に吊るした鞘を手に取って引き抜き、厨の土間の上へと放った。常の尊寶からは程遠い投げ遣りな所為に、南宮唐は目線を落とした。投げ出された二尺ほどの剣身は血脂にぎらつき、柄まで真っ赤に染まっていた。
南宮唐が身を屈めそれに手を伸ばすと、尊寶は、さっと、南宮唐に先んじて剣を拾い上げ、鞘に戻した。その顔には――激情に軽忽なことをした、と――慙愧の色がある。
屈めた目線を戻して尊寶を見上げ、南宮唐は訊いた。
「その剣の血は?」
一瞬、言い澱んだものの、尊寶は乱れた髪をばさりとかき上げ、頬に飛んでいた赤いものを手の甲で拭いとる。
「廖沈(振瑞)を阻止しようとしたのですが、すんでのところで周囲に邪魔だてされました。決して浅傷ではないでしょうが、仕留めるまでには……」
「おぬし、天官の宮卿補を襲ったのか――」
「……はい。されど、慣れぬ荒事に手を出すものではありませんな。不始末を重ね、この有様」
南宮唐は、その尊寶の言に重い息を吐いた。
府第において、それも天官府の内で、大史が宮卿補を剣で刺すとは、もはや抜き差しならない事態である。
「な、なぜです! 廖子は、あれほど太師に目をかけられていたじゃないですか! どうして太師を見限れるのですっ」
張暉の錯乱したようなその声に、尊寶は哀れむような眼差しを投げた。
「そもそも振瑞は大昔から、鷲申君に忠誠など誓ってなかったのだろう。あやつの脳裏にあったのは、常に自分の栄達、それのみだったのだ」
ついに言葉を失った張暉の隣で、南宮唐は冷静な眼差しを尊寶へ向け、質した。
「蔡宰輔はどうした。宰輔にも斬りつけたのか」
それは、南宮唐としては、確認しておきたいところだった。
「いえ……。蔡才俊を怨む事由は、わたしにはない。此度のことは太師より蔡宰輔が一枚上手だったというだけのこと。宰輔はずっと、ただ国を変えることだけを考えてこられた。そのためには、太師が邪魔なれば排除することも、それが世に戦乱を巻き起こすことになろうとも厭われない。それは判っていました故……」
その尊寶の言に、…――それは、先日の王孫航の言と同じものであったが――張暉は絶句し続けることとなった……。
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