第76話
文字数 2,041文字
王淑に遣わされる問責の使者に、廖 振瑞 を推す――。
その〝逢の天官宮卿補を洛邑の宮城から誘 き出す手立て〟を聞かせたときの徐 云 の表情 は、何 捷 のよく知る彼の顔であった。
「感謝するよ、何 捷 …――」
ひとの真心を信じ、疑うということをしない真っ直ぐな目。
意を尽くせば必ず正道に達する(※正しいことは必ず理解される)とばかりに、自分の友の口から出た言葉に素直な喜びを表す口許。
――相変わらずの〝善人ぶり 〟だな……。
心底で哀しく吐き捨てるように呟いた何捷は、これが〝蔡 才俊 の意を汲んだ策〟であることを伏せている。
徐云は、そんなことは露知らず、ごく当たり前の懸念を口にした。
「けど、そんな差遣 (公用の使として行かせること)の人事、いったい誰に働きかけるんだい。それに、王淑公への遣使ともなれば供回りの者の数も多くなるのじゃ……」
徐云には、自分が天官の宰輔・蔡才俊に直言できる立場にいることを伝えてない。だから彼には、天官府の事実上の長官である蔡才俊が、必ずこの献策を採るだろうことを知りようもない。
「……ま、それは任せてくれていい。必ず上手くいくよう尽力する」
わずかに心に痛みを感じつつも、徐云にそれ以上のところを思案させたくない何捷は、わざと意地の悪い笑みを作ってみせた。
「しかしこ れ は見ものだぞ。鷲申君に見出され、境丘の麒麟児として鳴らした廖 振瑞 が、いったいどんな顔を〝境丘の主 〟(王淑公)に向けるのだろうな」
やはり徐云は、何捷が思うとおりの表情になって、控え目に眉を顰 めて肯くのだった。
その夕刻――。
徐云と別れた何捷は、軒車 (=覆いと天蓋の付いた馬車)に収まり、洛邑の郭門の外、地図には記されていないと あ る 「里」(=周囲に柵・垣をめぐらした集落)に赴いていた。
ひとり車を降り、物々しい出で立ちの監門 (=門番)に天官府の割符を見せると、肯いただけで礼容を正すことない監門に肯き返し、門に入る。
里の中に人気はなく、要所要所に警吏と思しき者らが配されていた。
何捷はかまわず歩いて行き、ふつうの里であれば里家 (孤児や老人の住まう施設)として使われる邸の門を潜 って中に入った。倒坐房 の両の戸口に立つ警吏の目礼にやはり目礼で返すと、ひとりがその場の篝火 から松明を引き抜いて、暗い房内へと何捷を導く。何捷は後に続いて房に入り、階下に造られた部屋へと降りていった。
……そう、厳重な警備のもと、生活の気配を感じさせないそ こ は「羑里 」――つまり牢獄の置かれた場所なのだった。
松明の灯りの中を地下におりた何捷は、そこに汚物にまみれた袍に包 まれた身体をむき出しの土の上に投げ出した虜囚を見た。もう死んでいるかのように動きのない身体を見下ろす何捷の目は、常にも増して冴え冴えとしている。
虜囚の頭のくずれた髪はざんばらに乱れており、破れた袖から覗く腕には黒々とした痣がのぞいている。ぶらりと放り出された左足は、ありえぬ方向に曲がっていた。
この虜囚を……いや、この様 を――ひと目見るために、何捷は、宮中に得た手蔓 (=人脈)を使ってまでして、わざわざ洛外の羑里にまで出向いてきたのだ――。
「王位を望んだ末路がそれか……惨めなものだな」
低く吐き出されたその声に、襤褸 切れのような虜囚が反応した。
彼にとっては痛めつけられた身体に残った力をかき集めるが如くの力行 (力を尽くして行なうこと)だったろう。
恐ろしく緩慢な動きの末、ようやく何捷の方を見上げたその顔は、逢の王孫・姚 光銘 のものであった。
何捷は、口調をあらため、慇懃 (物腰を丁寧に礼儀正しくすること)に訊いた。
「私のことを憶えておいでか」
「――…ぁあ、境丘……の…………」
苦し気に、空気の抜けるような声で、姚光銘は返した……が、言葉が途切れ、後を続けられなくなる。声なく何捷を見上げるその目は〝驚愕に見開かれた〟というようなことはなく、ある種の諦観 (=あきらめ)を湛 えているようにも見える。
何捷は、そんな絶望のなかに自失した態 の王孫 光銘 を見下ろし、目を細めて言った。
「王位簒奪の罪を贖 うものは、公子 ……あなたの命です」 あ の 日 の立青 に投げかけられた無慈悲な言葉と言い様を、慇懃さの中に、努めて模倣して。「――そもそも臣籍に降った身でありながら姚の宗室に収まることを望むとは、身の程を弁 えぬ所業。そのような心得違いも、お命がなければ、もう致しますまい」
――光銘が洛邑で捕らわれたことを知ったとき、こうして貴種の成れの果てを嬲 ってやりたいと思った。立青のために、どうしてもこ れ をやりたかった。……だがどうだ。もっと愉悦 に高揚するものだと思っていたのに、そんなものはどこにもない。
眼前で力なく虚ろな目を泳がせるままの王家の末裔に、何らも感じることは出来なかった。こんなものか……。
「公子 のお命を召すとお決めになられたのは主上です。あなたは、助からない」
ささくれ立つ心を抑えて最期にそう言うと、何捷は、踵 を返してその場を立ち去った。
その〝逢の天官宮卿補を洛邑の宮城から
「感謝するよ、
ひとの真心を信じ、疑うということをしない真っ直ぐな目。
意を尽くせば必ず正道に達する(※正しいことは必ず理解される)とばかりに、自分の友の口から出た言葉に素直な喜びを表す口許。
――相変わらずの〝
心底で哀しく吐き捨てるように呟いた何捷は、これが〝
徐云は、そんなことは露知らず、ごく当たり前の懸念を口にした。
「けど、そんな
徐云には、自分が天官の宰輔・蔡才俊に直言できる立場にいることを伝えてない。だから彼には、天官府の事実上の長官である蔡才俊が、必ずこの献策を採るだろうことを知りようもない。
「……ま、それは任せてくれていい。必ず上手くいくよう尽力する」
わずかに心に痛みを感じつつも、徐云にそれ以上のところを思案させたくない何捷は、わざと意地の悪い笑みを作ってみせた。
「しかし
やはり徐云は、何捷が思うとおりの表情になって、控え目に眉を
その夕刻――。
徐云と別れた何捷は、
ひとり車を降り、物々しい出で立ちの
里の中に人気はなく、要所要所に警吏と思しき者らが配されていた。
何捷はかまわず歩いて行き、ふつうの里であれば
……そう、厳重な警備のもと、生活の気配を感じさせない
松明の灯りの中を地下におりた何捷は、そこに汚物にまみれた袍に
虜囚の頭のくずれた髪はざんばらに乱れており、破れた袖から覗く腕には黒々とした痣がのぞいている。ぶらりと放り出された左足は、ありえぬ方向に曲がっていた。
この虜囚を……いや、この
「王位を望んだ末路がそれか……惨めなものだな」
低く吐き出されたその声に、
彼にとっては痛めつけられた身体に残った力をかき集めるが如くの
恐ろしく緩慢な動きの末、ようやく何捷の方を見上げたその顔は、逢の王孫・
何捷は、口調をあらため、
「私のことを憶えておいでか」
「――…ぁあ、境丘……の…………」
苦し気に、空気の抜けるような声で、姚光銘は返した……が、言葉が途切れ、後を続けられなくなる。声なく何捷を見上げるその目は〝驚愕に見開かれた〟というようなことはなく、ある種の
何捷は、そんな絶望のなかに自失した
「王位簒奪の罪を
――光銘が洛邑で捕らわれたことを知ったとき、こうして貴種の成れの果てを
眼前で力なく虚ろな目を泳がせるままの王家の末裔に、何らも感じることは出来なかった。こんなものか……。
「
ささくれ立つ心を抑えて最期にそう言うと、何捷は、