第66話
文字数 2,138文字
「――それで、麗雯の養育先は祥逸なのかい」
話の流れが一区切りすると徐云は、思案顔の何捷にそう訊いた。
その声音には、何捷のよく知る〝屈託のなさ〟はない。気後れするふうな――いや、自嘲し、卑屈となりがちな自分を必死に取り繕う口重さが、本来、人好きのする彼の表情をくすませていた。
それは無理もないことだ、と何捷も理解している。
徐云は何捷より一歳年長で、来年には加冠を控える〝弱冠〟の年齢だった。その弱冠(十九歳)よりもなお若い十八歳の何捷が、いま頭に冠を乗せ向かい合っている。
徐云は志を立てた若者だ。年少の(それも同門の)友の後塵を拝したということには、胸中に往来するものは多かろう。何捷とて、立場が逆なら、やはり顔は合わせづらい。
だが何捷は、ここは敢えて〝気を使う〟というふうなことをせぬことにした。そのようなことが、いちばん彼のような男の矜持を傷つける。現在の在り様をどう受け止めどう振舞うか、それこそがひとの生き方だ。
「いや、北涼伯の末裔の女性を、賈人(=商人)の如きに委すことはできない。別に考えているさ……それより――」
何捷は〝蕭尊寶のこと〟を切り出すことにした。
「なんだってそんなことに……」
事実だけを淡々と語る何捷の言を聞き終えると、信じられない、といった表情となった徐云は、そう搾り出すように口にした。
「――蕭子と廖振瑞との間で何があったかは知らない。が、府第において振瑞に斬りかかったのは事実だ。……あの冷静な蕭尊寶が剣を抜くに及んだのだから、余程、腹に据えかねる〝何か〟があったんだろうな」
そう応じた何捷の声音に潜む微かな怒りに、彼と長く起居を共にした徐云は気付いている。その怒りは廖沈(振瑞)に向いたものだと思う徐云の脳裏には、〝廖沈には心許してはならぬ〟との忠告をくれた王孫航の冴え冴えとした貌が浮かんだのだった。
――廖沈……やはり境丘学派を裏切ったわけか……。
言葉のなくなった徐云の目の中に険呑なものを見たのか、何捷が低く言継いだ。
「徐云、莫迦なことは考えるなよ」
徐云が何捷を向くと、何捷は視線を上げずに続けた。
「廖振瑞は境丘の門人だが同時に天官の宮卿補だ。その天子の官に、理由はどうあれ、蕭尊寶は斬り付けたんだ……」
何捷の中に廖沈への怒りを感じていた徐云は、その彼の言に違和を覚えて眉間を寄せた。
「天官の吏であれば、義に悖る行いも赦されるって云うのか。それじゃ血胤を恃む王侯大夫と同じだ。法家が卿大夫に取って代わっただけじゃないか。――何捷、それをおまえの口から聞くとは思わなかったぞ」 思わず声音が高くなっていた。
二人にとって蕭尊寶は師のひとりといってよい。その尊寶をして、天子の臣に刃を向けさせた理由は、廖沈の境丘学派への裏切りに他ならない。徐云は、王孫航からそれを忠告され、高偉瀚からは廖沈の探りから学派の動静を瞞着する(=誤魔化す)役回りをさせられていたのだ。
境丘に学び鷲申君・章弦君の食客として恩を受けながら、いざことが起こるや掌を返した廖沈を蕭尊寶は許せなかった。その心情は境丘に学ぶ者ならば、例えば徐云のような軽輩であっても、自然なものと理解できる。
「――…王孫光銘の所業に激昂した何捷が、これを赦すというのでは、道理が立たない」
徐云のその言に何捷は、ちっと舌打ちをした。
何捷にしてみれば、徐云のその批難は的を外している。
先ず何捷は、この件に確かに〝怒り〟を感じていたが、それは徐云が思っているような廖沈へのものではない。むしろこのような軽挙に及んだ尊寶にである。……もっと言ってしまえば、〝境丘〟という派閥のあり様と、鷲申君との誼を切り捨てることのできなかった尊寶の姿勢に、であった。
廖沈のような者はどこにでも居ようし、現実に王城で震えるばかりの彼の姿を見てしまえば、如何にもくだらないものでしかないとわかる。それなのに尊寶は、あのようなくだらぬ者への一時の激情にまかせ、官人たる責務をすら放り捨てたのだ。
蔡才俊の下、天官府で共に変法に携わった何捷にとってそれは、あまりにやるせない結末だった。
「廖振瑞の如き小人など放っておけばよかったんだ。蕭尊寶には天官の大史として為すべきことがあった」
「蔡宰輔の下で法家の栄華を支えることをか」
何捷のやるせなさは〝売り言葉〟となって吐き出され、そんな友の真意を掴み得ない徐云の言は〝買い言葉〟となった。何捷は、高偉瀚の邸の相部屋でかつてそうしたように、猫のような目を剥いて声音を高くした。
「人の栄華はどうでもいい! 国体の原理が法による統治であることが重要なんだ」 その瞬間の何捷は、二十一歳の范克ではなく、十八歳の何捷である。
「おまえたち境丘閥は、現世に居ようはずのない聖人君子を演じる役者を求めるのに忙しいが、その典拠すら真面に論ぜず、衆人が理解し易いという只それだけで〝君子たる〟の資質を血縁に依って是とする。その安易こそが権に阿るということだろう!」
「だが〝我田引水(※)〟の法で他者を縛り付けることはないぞ!」 (※自分の都合の良いように物事を考えたり、したりすること)
もはやふたりは、学派と変法のことで、互いに一歩も退けなくなってしまっていた。
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