第72話

文字数 1,582文字

 離宮の廂房(しようぼう)と廂房とを繋ぐ回廊で足を止めた(ジェン)明璇(ミンシォン)は、連日、重く雲の垂れこめている冬の(くら)い空を見上げ、
(はぁ……)
 と、小さく溜息を吐いた。
 鉛色の雲は、何も応えてはくれない。

 乱の間、(シュイ)(ユィン)は、(つい)明璇(ミンシォン)のまえに姿を現さなかった。
 王に反旗を翻した鷲申君・(イャォ)(ファ)の興した境丘の学派に属する(シュイ)(ユィン)が、王の妹に仕える自分に会いに来れようはずはない。……それは明璇にもよくわかっている。
 ――自分は鷲申君と血続きの身なのだから……。
 いち早く王の側に付いていた章弦君の後見がなければ、太傅の手下(てか)に幽閉され、その後は、()くて( )(奴隷の身分)に落とされるか、悪ければ死を(たま)われる女である。
 そんな女の許に((たと)え章弦君から禄を得た〝客〟ではなかろうとも)境丘に学ぶ儒者が姿を現わせば、どんな(わざわい)が徐云と簡氏……それに王淑公家に及ぶことになるか……。

(……ううん。きっと(シュイ)(ユィン)のこと、()()わたくしに厄の及ぶことをだけ気にして、会いに来るのを(はばか)るわね)
 明璇には、そう考えるだろう徐云の思慮こそが、()()()うらめしく思えるのだった。
(わたくしにこんな心細い思いをさせて……)
 身分の差こそあれ、あれほど近しい存在だったのに、いまはもう、顔を会わすことすら(まま)ならなくなってしまった。
 こうなることはわかっていたはずだった。
 それでも――、
 (シュイ)(ユィン)は、わたくしの傍にあって、わたくしが望めば、わたくしをここから連れ出さなければいけないでしょう‼
 そんな思いを彼の面影にぶつけたくなってしまうのだ。
 無茶なのはわかっている。
 それでも、無茶を承知でぶつけられるのは、自分にとっては徐云だけなのだから……。
 それなのに、いまの(シュイ)(ユィン)には、自分の他にもう一つ、仕えるべき大きな存在がある。それを彼に(おし)えた儒の教えを、明璇は憎いとさえ思う。

 やるせなく視線を戻すと、(ジェン)の邸によく似た造りの回廊の先に、幼い璇璇(じぶん)の似姿をした〝影〟を(感じ)た。影は、むかし(シュイ)(ユィン)によくしたように、肩を怒らせるように涙を堪えて仁王立ちしている。
 目が合うと、幼い影はその場にしゃがみこみ、声なき声で泣き出した。
 それを(感じ)て明璇は、素直に泣くことのできた季節が過ぎ去ったのを感じたのだった。



 木枯らしの吹く洛中の大路で、場違いといえば場違いといえる深衣姿の徐云は、ふと、見知った顔が条の大路を反対側に行くのを目に留め、足を止めた。
 声をかけるべく向き直るより先に、眼前を衛士の隊伍( )(五名の兵の隊列)が横切ることになった。案の定、足を止めた伍長に身分の証を求められることとなった。
 徐云は、懐から(ホー)(ジェ)に持たせられた、天官府が身分を保障する旨の記された(とく)を取り出して伍長に差し出して見せる。伍長はそれにしっかりと目を通した。

 洛中の人心は未だに落ち着いておらず、少なくない兵が、市中のあちこちで姚華派の残党に目を光らせていた。徐云のような加冠を終えぬ身空が深衣姿で出歩けば、それはもう〝境丘の学徒〟と喧伝して回るようなものである。境丘の学徒の中には、先の騒擾(そうじょう)に際し、武器を手に取り姚華の下に馳せ参じた者も多く、胡乱な目を向けられることも(いた)し方のないことだった。

 牘の記載を(あらた)めた伍長は、それを徐云に返すと、あらためて行先を問うてきた。
 桃原の大坐賈(ざこ)(ヂォン)氏の枝店の名を告げた徐云に、伍長は、店の房前まで衛士を付けようかと訊いてくれた。洛中を巡察する兵の中には、境丘の学徒のような、姚華の側に縁を持つと()()()者に絡んでは戯れで暴力を振るうような( )(……大概、そのような者は字を解さない)も多く、実際、徐云も幾度かそういう目に遭っていた。
 徐云は伍長に礼を述べたものの、それを断った。

 そうして組みなおした隊伍を伍長が率いて大路の先に消えたのを見送った徐云は、あらためて(くだん)の〝見知った顔〟を見つけられまいかと、手近な小路の奥へと足を向けたのだった――。
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