第40話

文字数 1,683文字


 この日の射会は、章弦君の食客と公府の射士(しゃし)(王淑公の身辺警護官)とが競り合った末、射士が一等を得て面目を保ってみせた。
 学派を代表して弓を引いた(ホン)大慶(ダーチィ)は三等、武官でない(ファ)子瀚(ヅゥハン)も五指のうちに入るという好成績で競技を終えている。
 そうして(つつが)なく射会も終わり、主催の王淑公が健闘を終えた射手らを(ねぎら)うため、章弦君、王孫(ワンスン)光銘(グゥァンミン)らと、能射の集う陣幕を(おとず)れたときのことである。賞賜(しょうし)を終えて陣幕を出た王淑公のあとを遅れて出てきた章弦君と(イャォ)光銘の足元に、黄色い声と共に小さな人影が飛び出してきたのは。
 その垢汚れの目立つ粗末な衣服を纏った童女は、立青(リィチン)の妹であった…――。

 陣幕は射会に参じた者らが射技のあいだに使う控えの場で、上は大夫の子弟から一介の士、さらには、それぞれの地縁の有力者に後見された庶人( )(=平民)まで、(およ)そ〝能射〟との才名があるものはこの場に侍している。そこに身分の差はない。
 立青(リィチン)もまた、この度の射会には境丘に学ぶ徒として参加していた。

 衆目の場で弓を引いた兄の姿に妹は興奮したであろうし、そんな兄と一緒に食べるのだと、弓場の端に出た露店で求めた粥の入った椀を抱えて心踊らせていたろう。
 そうしてただ心踊る妹は、兄のもとへと小走りに陣幕の入口へ駆け込み、不幸にも()()で姚光銘と正面から()()()()こととなった。
 光銘の深衣の華美な刺繍と腰に吊るされた宝剣を、椀からこぼれ散った粥が濡らしたとき、逢の王孫、光銘の顔から微笑が消えた。

「…………」
 光銘の強張った顔が見下ろすと、その冴え冴えとした目線に射すくめられた立青の妹は、言葉を失って立ち尽すこととなった。
「(ひっ……うっ……) あ、の……、ご、ごめん、なさい…――」
 震える唇からどうにか言葉を絞り出す童女に向けられた光銘の目の険呑な光に、立青が割って入るように進み出て下跪( )(ひざまず)いて許しを請うこと)した。
「…――たいへん御無礼いたしました。なにとぞ、平に、平にご容赦を」
 そう言ってからさらに叩頭(こうとう)をしてみせる。妹は、そんな立青の背に隠れるように身を寄せて平伏した。
 そんな兄妹の面前に立つ貴人は、小刻みに震える立青の背中に質した。
「おまえがその(せん)主人(あるじ)か?」
 一瞬、何を問われたのか理解でき(わから)なかった立青が、言葉を発せられないでいると、光銘の苛ついた声が問いを重ねた。
「おまえはその賤とは如何(いか)な関わりなのだ?」
 今度こそ訊かれた意味を理解した立青は、意を決して応えた。
「――…わたくしの、妹でございます」
 その答えに光銘は神経質そうに片方の眉を上げると、立青に向けた目を酷薄そうに細めた。
「では、おまえも賤であるな」
「……はい…――」 立青の、震える声音が応えた。

 同門の学徒の首尾を讃えようと陣幕を訪ねた(シュイ)(ユィン)(ホー)(ジェ)は、その場に居合わすことになった。
 陣幕のなかのこの流れに胸騒を覚えた大慶は、立青の隣に進み出る前に、一足先に陣幕の外に出て中を振り見遣った章弦君の顔を見た。境丘学派の総帥は、黙ってただ顔を横に振って返した。
 それで大慶も足が出なくなった。
 章弦君の隣で(ガオ)偉瀚(ウェイハン)の老いた顔が天を仰いだ。花子瀚も不穏な空気に、その顔を強張らせている。

「立て」
 そう命じられた立青が面を上げゆっくりと立ち上がると、光銘は無造作に剣の柄に手をかけ、抜剣した剣尖を無造作に一閃させた。
「あ、あああぁぁ……っ」
 絶叫があがった。「……うああぁぁっ……目が……見えない! 何も……何も見えないっ!」
 絶望の声を上げて膝をついた立青の顔は、真一文字に掻き切られた両目から噴き出す鮮血で染まっていた。
 そんな立青にしがみついて泣く妹の声が、唸り声に変わった兄の慟哭に重なり、陣幕の中は粛然となった。
 そんななかで剣を鞘に戻した光銘は事も無げに言った。
「命は取らぬ。我が衣を汚した妹の罪を(あがな)うものは、おまえの両目の光だ。……そもそも賤の身でありながら逢への貢士を選ぶ射技に参じるおまえは身の程を知らぬ。そのような心得違いも目が見えなければ、もういたすまい」

 徐云は、自分の隣の何捷の中で張り詰めてゆくものが、一気に弾けようとするのを感じた。
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