第70話

文字数 1,677文字


 (イャォ)(ファ)は、低頭してその場を退(さが)った(トン)(ヂォン)と入れ替わるように、ゆらりと近づく人の気配に面を上げた。そのときにはもう、なにかを定めたような眼差しとなっていたのだが、視界に戦装束姿の(リァン)国宇(グォユー)を認めると、()と和らいだ。自らの不体裁を、ごく自然に嗤ったかのように見えた。
 国宇は同じような表情になって、
「少しは〝よい〟表情(かお)ができるようになりましたか――」
 姚華の隣まで進むと歩を止めた。その手には酒甕がある。
「どうやら、最後の最後に、逢の太師・鷲申君でなく、ただの(イャォ)(ファ)に戻られましたな」
 そういって酒甕を掲げた国宇の態度は、逢の太師に向ける辺境の一城主のものではなく、若き日に共に戦場を駆けた(ともがら)のそれだった。姚華は、肯いて()()を許す。国宇は酒甕の封を解いて一口含み、それから甕を姚華へと差し出した。姚華はそれを受け取った。

 酒が心地よく胃の腑に染み透り、野を馳ける火のように体のすみずみにまで熱く広がっていくのを感じる。それは姚華には、かつて五帝の仁政に胸を躍らせた頃の自分が追った人生(せい)の影に重なった。
 その影絵の物語は、ひとしきり姚華の中を巡ると、やがて酒の熱さとともに治まり、去っていった。
「明日、軍使を立てる…――」 姚華は静かに口を開いた。
 軍使を立てる、とは降伏するという意味ではない。
「――雌雄を決することにしよう」
 古来、戦とは戦場を択び、兵を選んで相対し、天命を賭して雌雄を決するもの。軍使を立てるのは、その戦場と日取りとを打ち合わせるためである。
 国宇は、ほう、と口許を綻ばし、酒の甕を(あお)った。
「古式に(のっと)りますか……面白い。それは外連(けれん)があって()い」
 そして本当に愉し気に笑って見せる。「――陣容は昌と原の十分の一。さてこの戦、後世、史籍にはどう記されますかな」
 そんな国宇の笑いに、姚華は満足気に頷き、それから目を細めて言った。
「いや、わしの最後の陣列は、一旅( )(五百の兵)でよい」
「…………」 その真意を目で問うた国宇に、姚華、もう一度ちいさく肯いてみせる。
 国宇は、なるほど、それは確かに()()()()()()でしょうな、というふうに、「(ハオ)」と泰然と返した。

「いま一つ、〝頼み〟がある――」 それから姚華は、礼容を正して正面に国宇を据えた。
「――この戦での車右はおぬしに頼みたい。(リァン)国宇(グォユー)()けてくれようか」
 すると梁国宇は、ふん、と鼻で笑うように、
「なにをあらたまったかと思えば()()ですか」 と酒の甕を口許に持っていき…――おそらく明日のことを思ってだろう――それを自重するように遠ざけた。
 そして、礼容を正して姚華に向き直ると、
「――あの日、君にこの命を救われて以来、我の命は君のもの。……でなけば、この沮で君の来るのを待ってなどおりませね」
 最期は晴れやかに笑って、そう言ったのだった。
 それで北辺のこの城を最後の地に選んだことの理由(わけ)を今さらながらに納得でき、姚華は、最後に残った友――この得難い(おとこ)の友として、最後の夜を笑うことができた。



 頃王の十七年、十月二十日――。
 (イャォ)(ファ)は、二十乗の兵車と五百の兵から成る手勢を率いて城を出ると、さきに城の南に布陣を終えていた一万五千の昌原連合軍の前に兵を並べた。
 その中には、騰政ら柔弱な学徒も戦装束に身を堅め、覚悟の表情でそれぞれに慣れぬ武器を手にしている。
 隅中(ぐうちゅう)(十二時辰でいう巳字(しじ)=午前十時)、兵車の上の姚華が太鼓を打って戦端を開き、両軍は正面から激突した。
 激戦は一刻( )(=二時間)あまりで決着した。姚華勢は三度突撃し、昌の将を二人、原の将をひとり斬ったが、徐々に兵を失い、矢も尽き果て、(つい)に昌の本陣に届くことなく潰えた。その間、兵車の上の姚華は、梁国宇を車右に、常に陣の先頭にあって太鼓を叩き、兵を鼓舞し続けたという。
 最後の突撃に際し、それでも鬼神と見紛うばかりの形相で戈を振り回す梁国宇と姚華の兵車の勢いをとめたのは、昌本陣前で待ち受けた弩兵の一斉に放った矢()()()であった。姚華と梁国宇は、疾走する兵車の上で全身を射抜かれ絶命した。
 彼らに率いられた一旅五百の兵は、そのことごとくが戦場の露と消えた……。
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