第35話

文字数 1,752文字


 火車(フゥオチゥー)南宮(ナンゴン)(タン)の邸の戸締りをして境丘門から桃原を出て、数日の経ったとある秋の日の午後――。
「おい、たいへんだ。どうも王府( )(洛邑の宮廷)の人心が一新されるようだぞ」
 (ガオ)偉瀚(ウェイハン)の邸で書見に耽っていた(シュイ)(ユィン)は、内院( )(中庭)から駆け込んできたひとりの学徒の声に、はっと顔を上げた。その同じ声を聴いた学匠学徒のうちの何人かは、席を立って彼に殺到し始めていた。
「いま(ファ)子瀚(ヅゥハン)(ヅゥ)がみえていて、老師と話しておられる。どうやら六卿(りくけい)以下、六官府の官吏に大きく入れ替えがあるらしいぞ」
「おい、それはやはり……()()か」
「うむ。新たな人事では昌公の閥が並ぶこととなるらしい」
「なんと…――」
 皆が言葉を失うこととなった。

 徐云のような若輩にも、その予感はあった。
 先だって洛入した変法諮問の一陣は市内に留め置かれたままで、当の諮問はいっこうに開かれる気配がないというし、そもそも()()構図が険呑(けんのん)であった。
 変法を牽引するのは宰輔(さいほ)(ツァィ)才俊(ツァィヂィン)で、彼の背後には太傅(たいふ)(三公次席。太師に次ぐ地位)として洛邑の留守居を(たば)ねる昌公(かん)の存在がある。鷲申君と昌公緩…――いや王淑公家と昌公家――の相克(そうこく)を知らぬ者はなかった。
 西方巡察に付き従った鷲申君はこの人事に関わりようがなく、当の人事をもって逢の宮廷を主導しようという昌公の目論見が透けて見える。が、それは置くとして、より一層に問題があると感じるのは、頃王がこれを承知した上で、鷲申君を巡察の随員に加えたのであろう事実(こと)だ。
 鷲申君によって開かれ、その甥の章弦君に引き継がれた境丘学派にとり、頃王の寵が鷲申君より離れてゆく事態は由々しきことだった。

 時代(歴史)が暗転していくような事態に、徐云は思わず講堂内に(ホー)(ジェ)の姿を捜した。
 その何捷は堂の端で牘に走らせる筆を休めて人だかりに目を向けていたが、徐云の視線に気づくと、ひとつ頷いて机に向き直り、再び筆を走らせ始めた。
 彼にしてみれば境丘の学派に列なるのは学ぶ場所を得るためであり、立身に学閥を頼るつもりはないのだから、洛邑での政争に一喜一憂することは馬鹿げているのだろう。

 そんな徐云と何捷の間の微妙な空気感などとは関係なしに、堂内は学徒らの若い声で喧々(けんけん)囂々(ごうごう)となっていった。
「……しかし、いったいなんだって天子さま( )(=頃王)は、鷲申君の頭ごなしにこのような人事を強行なされるのだろう――」
 何捷と意見を交わすことを諦めた徐云が、誰ともなく呟いたその声に、一人の少年が振り返った。つい先ごろ高偉瀚の門人に入ったばかりの、(ヂャン) ()(フゥイ)という学徒だ。徐云と何捷の()弟子といえる。
 猫を思わせる切れ長の目を澄ませ、張暉は首をかしげた。
「なんだ、(シュイ)(ヅゥ)はご存じないのですか」
(ヂャン)(フゥイ)はいったい何を知ってるんだい?」
 張暉という少年は冠礼は(おろ)か〝志学(しがく)〟(学者が志を立てる年齢と云われる)の年齢(とし)にも満たない十二歳で(ガオ)の門人になったのだが、妙に洛邑・桃原の宮城内外の噂話に詳しいませた少年だった。だから何か知っていてもおかしくないと、徐云は〝誘い水〟に乗って訊いたのだ。
 案の定、張暉は年齢(とし)に似合わぬ大人びた笑みを、徐云を含めた周囲の先輩学徒らに、浮かべて返した。ある意味での可愛げのなさは、何捷に負けていない。
此度(こたび)の変法の〝真の目的〟です」
「それは王権の強化だろう?」
 徐云の回答に、張暉はわざとらしく徐云の顔を見返してみせた。その幼い顔が、ええ、そうですとも。ですが、いったい()()はどのような? と言外(げんがい)に訊いてくる。
 徐云は、そのことについて、朧げな形のようなものを思い描くことは出来るのだが、それを言葉にして伝えることまではできなかった。
「さて?」 張暉は楽し気に回答を促してくる。
 と――、
「おい、誰からの情報なのだ? いやそれはともかく、勿体つけずに早く教えろ」
 声変わりしていない張暉の高い声に、他の学徒らがどっと迫った。
「まいりましたねえ。これは内密の話だと釘を刺されているんですが」
 いったい事の重大さがわかっているのかどうか。姉の婚約者の官位のことでも話題にするような気楽さ呟くと、張暉は周りの先輩学徒らに近くに寄るよう促がした。
「あくまで、()()御方の見立てですよ……」
 衆目が集まるのを待ってから張暉は云った。
「――天子さまは()()()卿大夫の禄を削るおつもりなのです」
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