第60話

文字数 1,717文字


 離宮の正房に(リィゥ)亜卿が姿を現すと、章弦公主・(ウァ)(イャォ)は、最初、緊張に身を強張らせた。
 (リィゥ)(マン)という大柄の男は、仰々しい礼容などとは無縁とばかりに、臆することなく公主の面前まで大股で歩み寄ると、裾を翻して拱手をし一礼した。()っとあたりの空気を切ったかのような、歯切れのよい挙措(きょそ)だった。
 野趣(やしゅ)に溢れ満身に自信を漲らせた流満の、その堂々たる立ち居姿に、公主・娥姚はすっかり気圧されてしまった。
 深窓に育った娥姚は、市井の風に育ち、市井の水に磨かれた者の持つ活力に生まれて初めて接したといってよかった。洛邑や桃原の離宮にこのような類の男性はいなかった。だから無理もない。……もっとも、公主の面前で、そういう素の自分を見せられる男というのも、そうはいないが。

 いっぽう、その公主の傍らに控えるかたちで侍した明璇(ミンシォン)の所感は、主人の受けた新鮮味とはだいぶん異なっている。
 大柄な流満の礼容に(とら)われない奔放な振る舞いは、一見、たしかに見映えはする。
 が、そこには大切なものが欠けているように、明璇には思われた。
 礼容とは「(かたち)」を介して 「心」を表すもので、目の前の()()を、礼を尽くして受け容れることであると明璇は理解している。
 それを取り去ることについて、心を表すものをほかに見出すことができるのであればそれはよい。けれど眼前の男のそれは、ただ()()()()()()()()()にのみ意識の向いた、云わば〝外連(けれん)(ごまかし、はったり)を纏う似姿〟でしかない。明璇にとっての流満は、そのようなものだった。

「ほう、これはこれは……」
 面を上げた流満は、娥姚を正面から見据えると、沿海の訛のままに口を開いた。
「――紅口白牙( )(※)、章弦公主は羞花閉月( )(※)の美女であられよった」
(※紅口白牙=(あか)い唇と白い歯の美人の意、羞花閉月=花はしぼみ月も隠れてしまうほどの美人の意)

 言って、にっ、と笑った流満に、当の章弦公主――娥姚が困った表情を浮かべるよりも早く、気張った明璇の鋭い声が上がる。
(リィゥ)亜卿、公主に無礼でありましょうっ」
 すると――、
「おう、そっちが王淑の……。なるほど、気ぃは強いみたいやが、これはこれで……、せやな、こっちは沈魚落雁( )(※)といったところか」
 と、頼んでもいない値踏みの言葉を吐いて破願哄笑(こうしょう)する始末。
 かっとなった明璇は、声が出る(すんで)のところで口を引き結んで、きっ、と流満を()めつけた。
(※沈魚落雁=魚が泳ぐのを忘れ(がん)が羽ばたくのを忘れてしまうほどの美人の意)

 流満は、明璇の目線を面白そうに見返した。
「さすが鷲申君……いや、(イャォ)(ファ)の縁者か。ふん、王淑の女っちゅうのは、皆そういうふうに気が強いんか?」
「逢の太師に敬称を付けぬのですか」
 気張った表情のままに、明璇は問いを問いで返したのだったが、それで流満の表情が変わった。貼り付いていた笑みが消え、目には厳しさが浮いている。
「姚華は太師を罷免されよった。――封地も召し上げられ、いまは無位無官の身だ」
 明璇は、息を呑んだ。
 ――やはり。
 そうであろうことは、主上に先だって流満が離宮を訪ねてきたことで見当は付いていた。
 娥姚が、はっと、目だけを明璇に向け、それから視線を伏した。
 明璇は、失意が声音に表れることのないよう崩れそうになる足元に力を入れ、なんとか流満の顔を向いて言った。
「では、わたくしはこの離宮にあってはならぬ身……そういうことですね」

 ――覚悟を決めねばならない。
 明璇は、自分に、そう言い聞かせた。
 王淑公孫の父は原伯国の虜囚となって不在。後見の鷲申君は天子に弓を引いた大罪人となった。
 その罪は、王淑公室に連なるものすべてに及ぶだろう。
 まだ恐怖が実感できていないうちに――見苦しい振る舞いをせずにすむうちに――…この場を去ってしまいたい、そう望む自分が、弛緩する意識の中にいた。
 泣き喚くようなことはすまい、と切に思う自分……。

 そんな明璇の様子に、笄礼(けいれい)を待つ十六歳の小娘とはいえ、王淑公孫の娘たる矜持を見たのだろうか。
 流満は表情を緩めると、明璇とは違って、気張るもののない声で言った。
「いや、簡孟姚(ジェンモンイャォ)(るい)は及ばん……安心しぃや」
 思いもかけぬその言に、明璇は、怪訝となった顔を流満に向けた。
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